262号 感話:阿弥陀さまの説法 [ 令和8年10月6日 ]
良寛の里 出雲崎そして和島
本紙6月号に父親の戒名に「良寛」とつけてもらって嬉しかったと知らせてくれた旧友のことを書きました。今度はどうしても良寛の里を訪ねたいと横浜から来てくれました。購入したばかりの新車「アクア」で出雲崎に出かけました。良寛記念館「夕日の丘公園」から望んだ日本海の景色です。良寛さんが晩年を過ごした和島(島崎)の隆泉寺様ではご住職にご案内いただいてお墓参りができました。良寛さんにはたくさんの書が遺されていて、それぞれにまつわる逸和が語り継がれ、人としての良寛さんにますます惹かれていく思いになりました。禅宗のお坊さんでありながら、南無阿弥陀仏にわが身を振り返られた良寛さんは、親しみと深い教養を兼ね備えた稀有な文化人だったんです。
ついでながら「アクア」について。安全装置が各所に備えられ、老いによる感覚機能低下を補ってくれていると感じています。さらに開発が進めば自動運転が一番安全な時代が間違いなくやってきますね。
老いに向き合い、老いを敬う
9月21日が「敬老の日」になっていることを知らずに5連休を楽しまれた方も多いのではないでしょうか。こどもの日を中心に据えた初夏の「ゴールデンウィーク」、敬老の日を挟んで秋の「シルバーウィーク」とは、上手いことネーミングされていますね。連休に先立って、私どものこども園ではお御堂に祖父母をお招きして「こども彼岸会」を行いました。幼児組3学年で3回に分けて延べ130名の方が参加され、お孫さんと一緒に絵本を楽しみました。お孫さんに恵まれてその成長を一緒に喜ばせてもらえることは仕合わせです。
敬老の日にちなんだ記事に興味深いものがいくつかありました。全国の百歳以上が初めて10万人を超えたそうです。その男女比は女性が87%です。ちなみに統計をはじめた1963年は153人でした。
「未来には誰でも老いがあるが、それを感じるのは常に現在である。いまという時間の重み、今日というときのいとおしさ。それらを何よりも大切にし、痛感できるのが老いなのだろう(朝日新聞9.21天声人語より)。」 敬老とは敬ってもらうことではなく、自分自身が老いを敬うことだと気づかされました。
お御堂に音のお荘厳 笙(しよう)とお琴
雅楽はお御堂が似合います。仏前のお荘厳(お飾り)が仏さまへの敬いを表すものだとすれば、雅楽もまた仏さまへの敬いです。笙の第一声が響くとたちまち雅(みや)びの世界に引き込まれます。日曜法座研修会で清水正歓さん(与板組光源寺)が披露してくださいました。
秋彼岸会家族礼拝の日には小林孝子さんと中静浩子さんがお琴を演奏してくださいました。その中で託念寺坊守も加えて1曲演奏した様子が写真です。写真では出来映えは分かりませんが、挑戦する姿にたくさんの拍手をいただきました。
感話 阿弥陀さまの説法
先の清水正歓さんのご法話に阿弥陀さまの名前の由来についてのお話がありました。量ることのできない光(無量光)と、量ることのできない寿(いのち)(無量寿)を兼ね備えた仏さまが阿弥陀如来です。どこにいても、どんな時にも阿弥陀さまのお慈悲の光がさえぎられることはありません。無碍(むげ)光といいます。
私は15年くらい前に痛風を発症して、それから尿酸値を下げる薬を飲み続けています。薬のお陰でしょう。あの痛みは再発していません。尿酸値はそれなりに安定していますが、健康診断を受けると他のところにも異常が見つかります。今私を心配させているのは腎機能の低下です。クレアチニン値が正常範囲を超えて「腎機能が低下していますね」と主治医に言われました。腎機能は基本的には治ることはなく、老いとともに進行していくもののようです。薬を飲んでも数値は改善しないのかとため息がでます。年齢が若くならないのと一緒です。そう考えたら当たり前なのに、どこかでいつまでも健康体でいたいと望んでいるのです。諸行無常は仏法の根本です。「老いを敬う」と言う一方で何も分かっていません。
大乗9月号「今月のことば 法語カレンダー」にハッとさせられました;
南無阿弥陀仏。「死んだら終わり」と考えていた私の心に阿弥陀さまの説法が刺さります:この無常なる「いのち」が、思い通りにならない「いのち」と知らされる。/この思い通りにならない「いのち」が、かけがえのない「いのち」と知らされる/このかけがえのない「いのち」が、生かされている「いのち」と知らされる/この生かされている「いのち」が、願われている「いのち」と知らされる/ この願われている「いのち」が、仏となる「いのち」と知らされる。
これもまた分かったつもりです。 合掌








