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147号 感話:仏さまの真似事といわれようとも [ 平成29年3月7日 ]

春が急接近

イメージ:春が急接近  3月に入り、晴れ間が続きました。3月の上旬にして田んぼにもほとんど雪がなくなりました。春が見えてきました。私は暖かくなったことを喜んでいますが、花粉症の方はこの季節を憂鬱な思いで迎えられるのだと聞かされました。
 


カツオくんととらこの物語

イメージ:カツオくんととらこの物語  2月22日はネコの日だったそうです。新聞にもネコの記事が多くネコブームといった現象になっていますね。我が家のとらこは16歳になりますが、2ヵ月に一度爪切りに動物病院に行きます。体重、体温、心拍数そして聴診器をあてて全身チェックをしていただくので、定期的な健康診断でもあります。「とらこちゃんは毛のツヤもいいし、年齢にしては若いですよ」と先生に言われると嬉しくなります。待合室でネコと人間の年齢関係の表が目に入りました。ネコの16歳は人間の80歳だそうです。7月生まれですから83歳くらいです。ネコ同士のケンカで大けがをした3年ほど前から家ネコにし、食事も病気予防を加味した専用フードだけにしました。今でも蒲鉾とか干物にはすぐに反応して寄ってきますが、心を鬼にしてやらないようにしています。お陰で健康を保っています。とはいっても私を超えた高齢になって、私の上にも着実に進む老いを、とらこは先んじて私たちに見せてくれるようであります。
 そんな折、私の友人がすてきなエッセイを届けてくれました。


 四日市章著「我が家のカツオくん」全国聾学校退職校長会会報すばる13号より

イメージ: 四日市章著「我が家のカツオくん」全国聾学校退職校長会会報すばる13号より わが家にはカツオくんという中型の雑種犬が一匹います。カツオくんはこれまで芸を仕込まれることもなく、勝手気ままに生き、御年16歳になりました。人間でいうと80、90歳とか。---中略--- このカツオくんが、去年の暮れ、急に右後ろ足が使えなくなり、その足を挙げたり、引きずったりして歩くようになりました。獣医さんは年齢による関節炎で、老犬ではよくあるとのことですと。カツオくんは急に自由な動きを奪われ、痛みもあるのでしょう、思いのままに歩いたり身体の向きを変えたりできずに、5、6歩進むと地べたに尻餅です。段差の上下も難しく、時には私が抱っこしました。彼自身も自分の変化にびっくりしたのか、グッタリした感じで食欲も落ちました。好きなものしか食べません。もうダメかなあとも思いました。可哀想になあと思いながら、家内と協力して介護生活を始めましたが、私はある時ふと感じました。カツオくんは、痛いとも、苦しいとも言わず(いえない)、愚痴をたれたり、人にあたったりもせずに、自分の状況を受け入れ、できる範囲で動いたり、居眠りしたり、これまでと同じような生活を続けている。こんなに簡単に、自分の大きな苦境を受け入れられるなんて、人間ならば、修行を積んでもなかなかできないなあと。また、彼の要介護状況は、そう遠い将来ではない我が身にも迫っており、彼を見ていると我が行く末を間近に見るようで悲しくもなります。しかし彼の様子を見続けていると、生き方を教えられ、励まされているようにも感じます。もしカツオくんがしゃべれたら、「あんたは何をくどくどと考えているのか、考えてどうにかなるとでも思っているのか、しょうがねえなあ。なるようになるし、できることをすればいいんだよ。」とでも言われそうです。一緒に短い散歩に出て、地べたにベタッと腰を落とした老いたカツオくんと、脊椎管狭窄症で足のしびれる老人の私が、原っぱの片隅に仲良く並んでしゃがみ、暖かい冬の太陽を背中に浴びていると、人と犬との違いを超えた、生き物としての繋がりのようなものを感じます。


イメージ:  我が家のとらことカツオくんは16歳同士、会ったこともない二人ですが、自分をしっかり受け止めて生きている姿は共通しています。とらこが大けがをした3年前、その傷口を抱えて熱を出し、ほとんど食べずにじっと人目につかないところに隠れるようにうずくまっていた姿が思い出されます。あのままいのちを終えていっても不思議ではなかったなと思います。また、私たちに十分愛されているところも共通しています。今は寒い季節です。夜暖房を消すと連れ合いか私の蒲団に入ってきます。大概は連れ合いのところですが、最近は私のところにも来るようになりました。これが私の喜びです。寝ている私の顔を手(前足)でノックしてから入ります。頭から入り蒲団にもぐって向きを変え私の顔のすぐ横に自分の顔を置いて、あるときは私の腕を枕にして喉(のど)を鳴らすのです。とても80歳の老ネコとは思えないかわいさです。私もまた、人とネコとの違いを超えた、生き物としての繋がりのようなものを感じます。


感話 「仏さまの真似事といわれようとも」

イメージ:感話 「仏さまの真似事といわれようとも」  私たちはどう生きていこうとするのか。若い世代も老いた世代においてもいつも自問する課題です。
伝灯奉告法要の参拝が近づいています。先般元上組の結団式があり、法要の冊子もいただきました。ご門主さまの「念仏者の生き方」と題するご親教(法話)が載っています。わが国では、「仏教はもともと仏法と呼ばれていました」とあります。そう言われれば祖父も仏法と言っていました。仏法は私たちがどう生きていこうとするのかを示してくれているのだと思います。私たちは、仏法を聞かせていただくことで、自分本位でしか生きられない無明・煩悩の存在であることに気づかされます。親鸞聖人はご自分にはとてもきびしく、いのちが終える直前まで煩悩が消えることはないと嘆いておられますが、ご門主さまはみ教えに出あうことによって少しずつでも煩悩を克服する生き方につくり変えられていく、とお示しになっています。もっと積極的に言えば、そういう生き方に変わっていかなければ仏法に出あえたことにならないのだ、とおっしゃっているのかも知れません。「欲を少なくして足ることを知る」「他者には穏やかな顔と優しい言葉で接する」を例に出しておられます。毎日の生活の中で心がけたいことであります。ご門主さまが「たとえ、それらが仏さまの真似事といわれようとも」と表現されているのが心に響きます。
 お浄土は死後の世界の話しではなく、今聞いて、そこに向けて歩みを進めていく方向が示されているのだと思います。このたびのご法要では、多くのお仲間とそんな思いを共にしたいと思います。合掌


イメージ:  2月 前島から西に米山を望む一枚


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