250号 感話:自分らしく生きる -ありのままの私がそのままで阿弥陀如来の救いにあう- [ 令和7年10月6日 ]
実りの秋
夏と秋の変わり目でした。9月18日早朝に強い雨が降り、一挙に夏を追い出してくれた感じでした。
収穫の秋です。新米が我が家の食卓にもあがりました。炊飯器から吹き上がる蒸気に特別の香りを感じ、真っ白に炊き上がったご飯を噛みしめながらいただきました。美味しかったです。今年の小雨、高温で心配されましたが、品質もよいとのこと、よかったですね。
日曜法座研修会・秋彼岸家族礼拝の御礼
9月14日 日曜法座研修会 ご法話:黒田宙さん 本願寺門徒推進員中央研修の講師を務めておられます。話し合いでは、ご自分のお寺をどうやって活性化するかという話になります。
「寺は広い場所をもっています。これをどういかすか、住職次第なんです。」黒田さんのお寺では音楽会を何年も続けています。正月の餅つき会は次第に増えて今や300人くらい集まります。
「若い世代がお参りしなくなったと嘆かれる人がおりました。お参りする姿、ご聴聞を喜ぶ姿を見せることが一番です。お寺から人がぞろぞろと帰っていく、何をやっているのだろうと思ってもらえたら広がっていくのではないでしょうか。」 託念寺の活動を励まされたようで嬉しかったです。
9月23日 秋の彼岸会 ご講話:片桐佐利さん
長岡市内で社会福祉の分野で幅広い活動をされています。「おもてなしの達人」片桐さんの切り拓いてこられた半生を語っていただきました。その過程で出会われたご縁の数々です。
20代で上京し、30代前半で転職してレストラン業に洗い場から飛び込み、ガンを患って長期の入院。それでも復帰して新規のお店を立ち上げ大きな成果をあげられます。さらなるステップと思っていた矢先に長岡に残したご両親のお世話のために戻ってこられました。その後は介護の傍ら、コミセン活動や保護司会事務局長など地元に大きな貢献を続けておられます。人を大切にした自作・自伝の絵本を頂戴いたしました。
感話 自分らしく生きる -ありのままの私がそのままで阿弥陀如来の救いにあう-
9月の元上組連研のテーマは「他人からどう思われているのか、気になって仕方ありません」でした。そもそもどうしてこんなテーマになっているのでしょう。連研テキストのサブテーマに「『自分らしく』」生きたいと思っていますが、『自分らしさ』をどうやって見つけたらよいのですか」とあったのでこれを手がかりに考えてみました。連研で自分のことを例にして話題提供しました。
自分らしさはすぐに分かるわけではないと思います。成長の段階で、人生のいろいろな時期に、いろいろな人との出会いの中で、自分の長所、短所が見えてきます。
私は小学校1年から3年生の半ばまで担任だった金井ノブ先生が思い浮かびます。今も97歳でお元気にされています。今から70年前にご結婚されてお子さんに恵まれて間もなくご主人を交通事故で亡くされました。まだ2,3歳の娘を私どもの園に預けて、前川小学校に転勤されました。優しい先生でした。下校時に毎日本の読み聞かせをしてくださいました。それが楽しみだったことをはっきり覚えています。この時期に金井先生は私の特性をすでに見つけてくださっていました。「純一君は動作も勉強もゆっくりだけど、習ったことはしっかり理解しているから大丈夫です」と何度も私の母に伝えてくださっていたようでした。同級生にT君という「できる子」がいました。算数の計算問題のテストではいつも一番に「終わりました」といいます。私が半分くらいしか進めていないときにです。徒競走でも、家庭科の運針でも「ゆっくり」でした。私の「ゆっくり」はこの年齢になっても変わりません。元上組で法中講や法要があるときなど衣をつけ、衣をたたんだりしますが、必ず一番最後になります。そのたびに金井先生のことばを思い出します。これが自分らしさだって。速さを競えばいつも劣等生ですが、競わなくてもいいんだって。
苦手の分野も自分らしさかもしれません。私は絵画が苦手で、手先が不器用です。ですから楽器も苦手です。私の人物画は顔にすぐ手と足を描いていました。不器用さは鉛筆削りでも、工作でも。
私はやがて大学に進み、障害児教育を専攻します。縁あっての聾教育、難聴教育の分野ですが、自分に似合った領域であったと思います。障害を持つ子どもの子育て支援では保護者と共感できることが大切ですが、私は自分の弱点、苦手の部分で辛い思いもしてきたので、共感はごく自然にできたのかもしれません。私にとっての座右の銘「みんなちがってみんないい」は障害児教育でも、お坊さん活動でも、自分が救われたフレーズです。私の支えになっています。
また、親鸞聖人との出会いも、たくさんの共感に満ちています。親鸞さまが比叡山時代に苦悩されたどうにも抑えられない女性への恋慕の感情。法然聖人に出会って立教開宗後でも、ご自身の名誉欲、自己中心性、妬みや嫉みの数々に悩まれます。晩年になってご長男善鸞様義絶の事態に追い込まれ、小慈悲も持ち合わせていないと嘆かれ、慚愧(ざんぎ)され続けます。これがありのままの親鸞さまの姿だったのでしょう。それでもそんな自分こそが阿弥陀さまのすくいの目当てだったと気づかれて歓喜(かんぎ)されます。決していい人間になれたわけではないけれど、摂取不捨が自分のためであったと深く自覚されて信心歓喜されました。
私にとってこのような出会いが、短所、苦手、弱点も含めた自分らしさの肯定につながったのだと思います。「鈴と 小鳥と それから私」と自分を抱きしめる自己肯定がとっても好きです。合掌