258号 感話:自分だけが幸せでよいのでしょうか [ 令和8年6月10日 ]
嬉しい出来事
30年前の職場の同僚から電話がありました。先頃父が90歳のいのちを全うしました。お寺さんが戒名に「良寛」とつけてくださったのです。晩年の父が小さいこどもに優しく接している姿を思い出してつけてくださったのです。私には厳しかったのですが。良寛と言えば長岡ですよね。今度良寛さんの里に行ってみたいと思います。
長岡市花まつり第100回記念大会の御礼
前日は荒天でした。5月5日は「晴の特異日」と言われるように、今年もまた晴天に恵まれました。法螺(ホラ)貝と楽人の雅楽に先導され、50人を超えるお稚児様、誕生仏を乗せた白象をゆっくりと引くボーイスカウト、ガールスカウトのこどもたち、平和を願うプラカード、五色ののぼり旗そして宗派を超えて集うお坊さんたちが大手通をお練りする姿に100年続いた歴史の重みを感じました。手を合わせて下さる沿道のご高齢の方には思わず頭が下がりました。
記念講演 「一億特攻への道」の大島隆之さんへ
平和講演と位置づけての願いがありましたが、それを見事に実現してくださいました。特攻隊遺族の取材活動に関することでは、長岡が会場であることをご配慮いただいて、丁寧にご遺族のことを紹介してくださいました。私のように取材を受けた側のものからすると、大島さんの言葉を一言でも逃すまいという思いになりました。父の名前、私の名前を何度もあげてくださるたびに、胸が高鳴り気がつくと手のひらが汗で濡れておりました。有り難く申し訳ない気持ちになりました。
大島さんの「公として果たさなければならない役割(責任)と、個としての私に許される自由の境目」のお話は、とても大切なご指摘でした。戦争が身近に迫っているときとそうでないときでは違ってきます。石垣島の、戦死された方の慰霊碑に刻まれた文言をめぐっての事例は、特攻戦死のご遺族の無念さが反映されず、再び過ちを繰り返しかねない警鐘でありました。
私たちも毎年戦没者追悼法要を勤めておりますが、追悼挨拶に「今日の平和と繁栄は、戦没者の尊い犠牲の上に築かれた」と表現されることがあり、違和感を覚えます。英霊と讃える中に見え隠れする「人のいのちを利用しようとする」思惑が怖いと思います。大島さんが紹介くださった父の写真帖に記された一文「他人のいのちまで手段としてあつかうようなことはやめよう」は、戦時には決して口に出せなかったことです。戦争が終わって9年の年月を経てようやく書けた父の言葉だったのかもしれません。
ご講演を聴かれた方から「よかった」「考えるきっかけをもらった」「誤魔化されてはいけないこと、守るべきことを認識させられた」など沢山感想が寄せられました。父の生きた証に気づかされたことでした。
感話 自分だけが幸せでよいのでしょうか(連研12の問いより)
今年の連研がスタートして第1回目のテーマでした。「最近感じた幸せがあったら何でもいいですから発言して下さい」からはじまりました。自分なら何だろうと振り返り、長岡市花まつり第100回記念大会が無事に終わったことかなと思いました。いろんな方々と一緒に取り組み、次々に起きる課題にそれぞれの持ち味を発揮して一歩一歩前に進み、そして当日の大きな達成感を味わったことでした。お互いにあなたがいなかったらできなかったねと賞(ほ)め合い労(ねぎら)い合いました。ともに喜び合える仲間がいるとき「仕合わせ」を感じるものだと改めて実感したことでした。
連研の話し合いが進み、テーマの文言に触れて、「自分だけが幸せでよいのでしょうか などと思う人はいますか、いないでしょう。人間はもっと利他的な側面を持っていると思います」とのご発言がありました。私は頷きながら、NHK朝ドラの場面を思い出しました。奥様と呼ばれる貴婦人が乳ガンを患い入院しています。看護師見習いの主人公りんさんは、なんとかしてその患者に寄り添いたいと思うのですが、奥様は「私の気持ちなんか分かるはずがない、気軽に言わないで」と突き放します。
この場面の主人公の気持ちが、私たちが共通に持っている利他的心:仏性かと思いました。りんさんは自分はガンにならなくてよかったなどと、患者さんの前で思うはずがありません。なんとか患者さんの苦しい気持ちに寄り添いたいと思うのです。それでも寄り添えきれない現実に直面します。
親鸞聖人はとことん自らの内面と向き合われた方です。寄り添いたいと思っていても寄り添いきれない現実を知り尽くして、その私にできることはお念仏しかありませんと言い切っておられています。それはそれでスゴいのですが、その前に寄り添いたいと願う気持ちがきっとあります。それが利他心です。今の時代、利他心が希薄になっていることが心配です。他を思いやる心が世の中を住みよくしていくのだと思いますが、自分ファーストがまかり通り、自分ファーストは当たり前でしょうと開き直り、それが恥ずべきことと自覚されていなかったら、これからどうなっていくのでしょう。私たちの本性は「煩悩具足の凡夫」と表現されます。人生をどこまで歩んでいっても煩悩が小さくなることはありません。「み教えを学ぶのではありません。み教えに学ぶのです。」といわれます。歳を重ねれば重ねるほど、学んだことはすぐに忘れるのが私たちの常です。み教えに出会ってともに気づきを重ねていきましょう。「ともに!」です。 合掌








