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235号 感話:浄土の慈悲-お念仏を喜べる身へ- [ 令和6年7月3日 ]

ようやく梅雨入り

235号 感話:浄土の慈悲-お念仏を喜べる身へ-  6月22日気象庁は新潟県でも梅雨入りしたとみられると発表しました。例年よりも11日遅かったようです。水不足も心配されていたので、ホッとしました。今後は大雨にならないことを願いたいです。中越地震があった平成16年には7.13水害が新潟県中越地方で発生しました。大雨大水で私が一番怖かったのは昭和36年6月下旬の水梨堤防決壊危機です。自衛隊の活躍でなんとか食い止められましたが前島堤外地の「島ばたけ」は全部流されてしまいました。自衛隊の活躍が称えられたことでも記憶に残っています。自然の中で生きる私たちは災害とも隣り合わせで暮らしてきました。


丸々と丸め丸めよわが心 まん丸まるく まるくまん丸 木喰(もくじき)

235号 感話:浄土の慈悲-お念仏を喜べる身へ-  木喰上人の語り部青柳清二さん(上前島町在住)に久しぶりにお会いすることができました。昭和2年生まれの97歳、お孫さんのご法要に参列されました。そしてお墓に刻まれた木喰上人の歌にであいました。木喰さんの生誕300年を記念して出版されたご本「木喰-廻国放浪の作仏聖(さぶつひじり)-広井忠男著」 をお借りして読ませていただいています。江戸時代に寺も家も妻子も持たず仏像を作り続けて民衆の幸せを願い続けた木喰さんの生き方を訪ねたく思います。

写真は靑柳家所蔵「白衣観音」


時をかけるテレビ ばっちゃんのドキュメント(2017年放送)

235号 感話:浄土の慈悲-お念仏を喜べる身へ-  育ち盛りの子どもがお腹が空いたら、万引きでも盗みでもしてしまいます。生きるためにそうするしかないのですから。「お腹が空いたら食べにおいで」と自宅でご飯を提供して居場所のない子どもたちを30年間に渡り支援し続けてきた元保護司のドキュメントを見ました。誰彼となく「ばっちゃん」と呼んでいました。支援を受けたマコト君が更生していく姿と発せられた言葉は、人への信頼がこれほどまでに大きな力を持つものなのかと嬉しくなりました。思春期の若者が透き通るほど素直に自分の心の内を言葉にしていました。「子どもの頃は食堂だった。お腹が空いたらご飯を食べさせてくれた。今は帰る家だ。ばっちゃんが待ってて迎えてくれる家だ。」16歳、遠く離れたところで、ひとり住まいで頑張っていた。・・・・・・そして今、二人の子どもの父親になっていました。NHK見逃し配信サービスで視聴できます。

写真は前島の夕焼け6月26日午後7時30分


感話 浄土の慈悲-お念仏を喜べる身へ-

235号 感話:浄土の慈悲-お念仏を喜べる身へ-  6月の日曜法座で高橋源一郎著「一億三千万人のための『歎異抄』」を紹介しました。1回の法座で紹介できるものでないことを承知の上で、こんな本がありますよとお知らせした格好です。私の書棚に目をやると歎異抄の関連本が何冊もあります。歎異抄に魅了された人がその人なりの受けとめを一冊の本にしておられるのです。歎異抄の本文は一万字に満たないものですが、聖人の肉声が聞こえてくるような内容に読者の思いが重なり、気がつくと大部の一冊になるのかもしれません。その一冊に私の祖父顕昭がペン書きで作成し和綴じした「歎異抄」がありました。186ページからの大作です。パソコンもワープロもない時代です。すべて手書きの原稿です。出版しようとしたものかもしれません。これについては是非とも別の機会に紹介したいと思います。


歎異抄第4条  慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと云々。


235号 感話:浄土の慈悲-お念仏を喜べる身へ-  この原文でも大概の意味はとることができます。高橋源一郎さんが意訳しているものを紹介します;
 慈悲は他人を救いたいと思う深く切実な気持ちのことですから仏教で最も大切な考え方です。ところが慈悲には「聖道」と「浄土」の2種類の考え方があります。「聖道の慈悲」は生きとし生けるものすべてを憐れみ、いとおしみ、自分の力で大切に護り育てていこうという気持ちです。もっともだと思うけれど、そんなこと無力な人間にできることでしょうか。そもそも人間に他人を救う力があるのでしょうか。
 それに対して「他力の宗派:浄土門」が考える慈悲は違います。「浄土の慈悲」ではとにかく念仏を称えて浄土に生まれ、すべてを救いたいとおっしゃる阿弥陀さまの慈悲のこころになって、すべての人びとに向かい合うということです。この世では、憐れな人びとをどんなに助けたいと願っても、誰かひとりでも本当に救うことなんかできません。だから私たちはただお念仏を称えます。生の苦しみにあえぐすべての人びとを救えない自分の無力さに思いを馳せながら。
 ウーンと唸ってしまいます。確かに苦しんでいる人を助けたいと思っても助けきることはできません。だからといってただお念仏するだけで本当に自分の気持ちが収まるでしょうか。前頁の「ばっちゃん」のような真似事でもできたらと思ってしまうのですが。親鸞さまも「ばっちゃん」の行為を否定はなさらないと思います。ならば、聖人のおっしゃるお念仏の意味するところはどこにあるのでしょうか。私の祖父も戦後、戦争で母子家庭となった家族の生活支援に奔走して、宮内に授産所、保育所を立ち上げました。合掌

写真は鷲尾顕昭と宮内保育所第1回卒園式


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