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234号 感話:八百年前の親鸞聖人がよみがえる [ 令和6年6月4日 ]

青葉繁れる

234号 感話:八百年前の親鸞聖人がよみがえる  そんな季節です。木々のすごい生命力を感じます。
 朝ドラ「虎に翼」の5月24日放送を見て書いています。時は昭和19年、寅子(ともこ)(トラちゃん)の夫優三さんに赤紙がきて、出征するまでの場面でした。ついにきてしまったという赤紙、見ている私もドキッとしました。寅子もこの日が来るのは覚悟していたとつぶやいていました。
 もう80年前の出来事ですが、朝ドラではよくこの時期をはさんでドラマが作られます。今ウクライナでもパレスチナでも戦争が続いています。ウクライナだけでなくロシアの兵士にも家族がいます。今も朝ドラと同じ場面に家族が立たされています。トラちゃんが優三さんを追いかけて見送るシーンに、切ない涙があふれてきました。どうしてこんなことがいつまでも繰り返されるのでしょうか。戦争は、誰のために、何のために行うものなのかと思います。
 この日の放送は「19年の冬から日本本土各地への爆撃が始まりました」とエンディングナレーションが入りました。思わず「ああ、父はこのとき硫黄島にいたんだ。やがて硫黄島への総攻撃が開始され日本軍およそ2万人、アメリカ軍においても6千人を超える兵士がいのちを落としました。父は幸いにも結核を発症し、19年の年押し迫った12月に最後の帰還兵として本土に戻されました。幸運といえば余りに身勝手な心情だったのでしょう。「後ろ髪を引かれる思いで帰還した」と、後のアルバムに記しています。
 ドラマの猪爪家は出征した二人が無事に帰ってこられたのだろうか。来週の放送で明らかになるのですが、その前に書かなければの思いです。今日の放送で出征した優三さんはとりわけ優しく身体は頑丈とも思えません。これから兵隊になるために厳しい訓練を受け、敗色濃い戦地に向かうことになります。優三さんの兵隊としての生活はどれほど過酷なものになるのだろうか。このあと日本の全土が次々に空襲され、多くの市民が家を焼かれ、逃げ惑い、いのちを奪われていきます。テレビドラマではあっても、虚構ではなく、実際に起こった事です。
 父は硫黄島から戻り、久里浜の結核療養所に入院しました。いつ長岡に帰ってきて家族と再会したのだろうか。父はこの時期のことを詳しく語ってくれていませんでした。


長岡市花まつりの報告と御礼

234号 感話:八百年前の親鸞聖人がよみがえる  5月5日は好天に恵まれ、気温は30℃にまで上昇し熱中症が心配なくらいでした。私が長岡市仏教会長になって初めての大仕事でしたが、お稚児様のお練りは花まつりの雰囲気を盛り上げてくれました。前川こども園からの参加もあって嬉しいことでありました。
 託念寺でお願いした花まつり募財にご協力ありがとうございました。また、花まつり会場に設置した「能登半島地震救援募金」は総額:99,575円となり、全日本仏教会を通して全額被災地に届けられました。

長岡市仏教会花まつり募財
喜捨額:35,150円
ご協力心より感謝申し上げます


日曜法座研修会 講師:田中博之さん(万休寺住職)

234号 感話:八百年前の親鸞聖人がよみがえる  仏教説話「キサ・ゴータミー」を題材に、わが子を亡くした親の悲しみをご法話くださいました。
 幼子を亡くしたゴータミーはそれがどうしても受け入れられずにお釈迦様に相談します。どうしたら生き返ることができますかと。お釈迦様は現実を受け止めなさいと諭(さと)すのではなく、芥子(けし)の実を五つの家からもらってきなさい。ただし、一度もお葬式を出したことのない家からもらってきなさいと。芥子の実は決して珍しいものではないのでそれならできそうと家々を回ります。ところがどこを訪ねてもお葬式を出したことのない家はありません。それどころか大切な人を亡くした悲しみを、回る家々で聞かされて、ゴータミーはわが子が生き返らないことを深く嘆きながらも、自分と同じような悲しみを多くの人が乗り越えてきていることに気づかされます。自分の悲しみを受け止めてくれる人に出あい、ようやく受け止めなければならない現実に向き合うことができました。


感話 八百年前の親鸞聖人がよみがえる

234号 感話:八百年前の親鸞聖人がよみがえる  4月28日に明鏡寺様で厳修(ごんしゆう)された親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年元上組慶讃法要では170名の参拝者で広い本堂がいっぱいになりました。
 今井雅晴先生のご講演では、親鸞聖人の主要な門弟が武士であったこと、武士にこそ布教の焦点をあて悪人正機による救いを説かれたとお示しくださいました。平安時代までは貴族がまつりごとを行っていました。貴族は人殺しは地獄に落ちると忌避し嫌っていました。やがて貴族は自分では手を汚さないで、武士にそれを担わせるようになりました。今井先生は源平の合戦で名をはせた武将熊谷直実にまつわる逸話を紹介くださいました:直実は一ノ谷の合戦で17歳の少年平敦盛を討った宿縁を嘆いて、その父経盛に手紙を送りました。「直実はたまたま武家に生を受け、嘆かわしいかな、悲しいかな、怨念の敵である若きいのちを害してしまいました」と。武士にとっても殺生は地獄につながり、仕事を果たせばその分苦悩は深まることになりました。
 武家政治が開かれ、その都になった鎌倉、そして関東はまさに、親鸞聖人の布教活動が実を結ぶためにもっとも相応しい場所でありました。流罪地越後でこのことを実感し、家族を伴って関東に移られました。立教開宗の基盤づくりとして越後での布教実践は大きな意義があったと強調されました。合掌


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