224号 感話 55年の時を超えて -出遇いの不思議- [ 令和5年8月4日 ]
梅雨明け 猛暑
梅雨が明けて一気に真夏の天気になり、蝉の鳴き声も聞こえはじめています。ここに至る前に毎年水害が発生します。今年も九州、中国、秋田を中心とした東北地方で大きな被害が出ました。暑さの中での復旧作業はどれほどに難儀なことでしょうか。自分の力だけではどうにもできないご家族も多くあると思います。応援にかけつけ、作業されているボランティアの方々に頭が下がります。
長岡の8月は長岡空襲被災者追悼のときでもあります。
長岡大花火大会が8月2日、3日に開催されました。
境内草取り御礼
ちょっと恥ずかしいほどに境内が草に覆われていました。「この時期草の伸びる勢いはすごいですね」と言い訳していましたが、7月22日早朝から大勢の方々がいらしてくださいました。恵以真会の皆さん、OBの方、有縁の方にもご協力いただきました。右の写真に収まっていない方もおられました。おかげさまでお盆が迎えられます。心より御礼申し上げます。
第2回日曜法座研修会
巻組妙光寺ご当院井上大乗さんをお迎えして開催いたしました。4番目のお子様が生まれたばかり、子育て奮闘中の若きお坊さんです。一生懸命のお取り次ぎが伝わってきました。設定した時間では足りずに申し訳なく思いました。
「ありのままを見る」というお話し、何度も頷きました。「とんち」で有名な一休さんの若き日のエピソードが心に残りました。修行中の一休さんとお師匠さんとのやりとりです;お堂の灯りを全部消して真っ暗の中で「何が見えましたか」と尋ねられます。他の修行僧は「何も見えません」と答えられる中、一休さんは、「闇が見えました」と。
暗闇では私たちの眼は働きません。光をいただいてようやく見えるように、心の闇も仏の光に遇わなければ見えないのです。正信偈最後のご和讃「仏光照曜最第一 ・・・ 三塗の黒闇ひらくなり」が浮かんできました。「妙光寺」のお名前も素敵ですね。井上先生ありがとうございました。
感話 55年の時を超えて -出遇いの不思議-
人生は出遇いの不思議に満ちています。昭和43年8月に友だちに誘われ、長野県北安曇郡栂池高原の学生村に受験勉強と称して一週間ほど滞在しました。そこでどれほど勉強したのかあまり覚えていませんが、そのときの出遇いがずっと記憶に残り続けていました。大学受験は私だけで、卒論を控えた東大4年生の4人、あまり勉強をしているようには見えなかった都立大学2年生のカップル、もう一人は関西弁で話す大学院生でした。東大生の二人は自分でも不思議に思えるほど名前とお顔をはっきり覚えていました。食事はまかないでしたからみんなで一緒に食べました。大学生同士の会話を聞いているだけでも楽しかったのかもしれません。
その東大生だったお一人と先月55年ぶりに広島県呉市で再会を果たすことができました。浄土真宗本願寺派のお寺さんに生まれ、名前は多幾山斯梵(しぼん)さん。お名前からして坊さんらしいです。でもそのとき以降ずっとどこの人かも、今どうされているかも分からないままに、50年が過ぎました。それがある日突然、不思議なご縁が開かれました。所在が分かり連絡が取れるようになりました。そこにさらにコロナウイルス禍が立ちはだかって5年の歳月が流れました。待たされた分だけ喜びは大きなものとなりました。
高校生だった私は高齢者になり、大学生だった多幾山さんは後期高齢者となりました。時の経過は見事に平等に老いを招いていました。ところが再会して話し始めれば、この50年の空白がなかったかのように、共通の知り合いを語り、本願寺の現状を憂い、愛山護法の思いを共にしていました。根っこには、遠く離れていても長い時を経ていても、親鸞聖人のみ教えに出遇えたことへの喜びがありました。
広島は安芸門徒と呼ばれ熱心なご門徒さんの多いところです。私は夏安居(げあんご)法要に呼んでいただきました。朝6時に撞かれた梵鐘がとても優しく響き法要のときを知らせます。一緒に正信偈をお勤めし、聴聞のときどきに聞こえるお念仏の声に同信同朋の安心をいただき、お念仏への思いも伝わってきました。
出遇いの不思議に興奮をもたらしたことがもう一つありました。多幾山さんとともに名前を記憶していたもうお一人は桃井恒和さんといい、松井秀喜さんと長嶋茂雄さんが国民栄誉賞を受賞されたときの読売巨人軍球団社長でした。桃井さんからもお手紙をいただき、出遇いの記憶を共にさせてもらうことができました。桃井さんは読売新聞社会部の記者だったとき、田中角栄元首相逮捕の現場にかかわり、その後長岡には何度もいらしていたこともわかりました。これも不思議なご縁と言えるかもしれません。合掌