206号 感話:仏の心を稽古する [ 令和4年2月2日 ]
節分そして立春
一年で最も寒い時期が過ぎこれからは春に向かいます。まだ寒くはありますが、気持ちは上向きます。
年末のお御堂大掃除仏具磨き、除夜の鐘撞き、年が明けて年始総会と大勢の方々のご協力で諸行事を勤めることができました。改めて感謝申し上げます。
新型コロナウイルスの変異株「オミクロン」が猛威を振るっています。連日過去最高の感染者数が更新され、身近のところでの感染も耳にし、私自身がいつ感染してもおかしくない状況になっています。寺院での行事についても注意深く推移を見まもって対応していきたいと思います。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」
正月からスタートしました。ご覧になっていますか。私は託念寺の由緒にまつわるちょっとしたつながりを感じて熱心に見始めています。託念寺のルーツは富山県黒部市生地(いくじ)にある専念寺です。専念寺の由緒書によれば、そのルーツは福島県棚倉町の蓮生寺に行き着きます。蓮生寺を開いた人は親鸞聖人の24輩 (聖人から直接み教えを聞かれた24人のお弟子さん) の8番目、証性房です。この証性房こそが畠山重忠の次男重秀であると伝えられています。「鎌倉殿の13人」のひとりが畠山重忠です。もうすでにドラマの中で何度も登場しています。蓮生寺には、重忠が守本尊として常に所持していたという阿弥陀如来のお軸が伝わっています。ちなみに蓮生寺ご住職も専念寺ご住職もともに畠山姓です。本願寺が東西に分裂するときにその争乱に巻き込まれ専念寺の寺族が越後に逃れて「鷲尾姓」を名乗りました。長岡市十日町の専福寺様、福道の光傳寺様も専念寺様を共通のルーツにしていますが、共に鷲尾姓として今につながっています(託念寺HPより)。これからドラマで重忠がどんな姿で描かれるのか、楽しみにしています。
感話 仏の心を稽古する
これは、釈徹宗さんによる第45回全日本仏教徒会議島根大会基調講演の演題です。コロナ禍でオンライン配信となった大会ですが、その恩恵でしょうか、基調講演をYouTube(ユーチューブ)で視聴できました。釈さんのお話しはいつも分かり易いことばでお法りを伝えくださっています。
コロンビアトップ・ライトという漫才コンビを知っておられますか。覚えておられますか。60年代70年代に活躍しました。トップがツッコミでライトがボケを演じていました。私たちの世代であればほとんどの人が知っています。30代、40代になるともう知られていません。この色分けは鮮明です。おもしろいですね。
漫才絶頂期にトップさんが参議院選挙に当選します。漫才コンビが解消し、ライトさんは生きていくために何でもやったそうです。もともと話すのが得意でしたから司会業に活路を見いだしました。小さな仕事でも積極的に受けやがて認められるようになりました。ところがそんな矢先、喉に異変が生じて喉頭ガンと診断されます。お医者さんは喉頭つまり声帯を摘出しなければならないと宣告します。ライトさんは途方に暮れますが、お医者さんは食道発声を身につければ再び話ができるようになります、それはその人の頑張り次第だと希望を伝えます。一緒に聞いていた奥さんもまたライトさんの手を握りしめ、一緒に頑張ろうと励ましました。幸いに手術は成功し、発声訓練のリハビリが始まりました。奥さんは心を鬼にして訓練に協力しました。あるときこんなことがあったそうです。そもそも大病を患ったわけですから、身体がきついこともあります。ソファーに横になったままで、奥さんに声を出さずに身振りで用を命じたそうです。「あれを取ってほしい」と。奥さんは、「ちゃんと声に出して言ってください。そうでなかったら取りません」と、その言いつけに従いませんでした。ライトさんは、たちまち頭に血が上り、そばにあったものを投げつけました。どんな形相だったのでしょうか。釈徹宗さんは、そんなエピソードをあるときラジオ番組の中でライトさんの肉声として聞かれました。訓練して身につけた食道発声のその声で。
ライトさんのお話が続きます。自分はもともと話ができる声をもっていました。当たり前のように話をしていてそれがありがたいとか尊いとか思ったことがありませんでした。でも食道発声は違います。こうして妻も協力してくれて共に血のにじむような努力をしてやっと手に入れたものです。ライトさんは誓いました。「この声を使って、人を罵倒したり傷つけたりは決してしない。この声は、人を喜ばすため、この世界を輝かせるために使いたい」と。
釈徹宗さんは、「ああ、これが愛語」とそのお話を聞いて深く頷かれました。「和顔愛語(わげんあいご)」は仏説無量寿経にでてくることばです。釈さんは、和顔愛語は「穏やかな態度」と「慈しみのことば」と言われました。
ここからは私の感想です。「仏の心を稽古する」とは聞き慣れないことばでした。「稽古」とは、広く芸道に共通して使われる、主に練習を指す言葉である(ウィキペディアより)とあります。繰り返し繰り返し練習し、身体に覚え込ませる、そんなイメージでしょうか。食道発声を体得することもきっとそんな稽古の賜であったのでしょう。
仏教は、仏法ともいい、仏道ということばもあります。仏教といえば、仏となられたお釈迦様の教えであり、私が仏になるための教えでもあります。仏法といえば仏教が説く真理という意味が強調され、「諸行無常:どんなものも移り変わり一時も止まることはない」「諸法無我:すべてのものは単体として存在するものはない、つながりあっている」と説かれます。そして仏道といえば、仏の心が顕れる所作をイメージすることができます。私たちは仏法を聴聞します。繰り返し同じ事を聞かされることもあります。きっと「心を稽古する」とは、聞いただけで終わってはいけない。行動に顕れてこそ、自分の行動として身についてこそ、聴聞したことが意味を持つことになるのではないでしょうか。「仏の心を稽古する」とは「和顔愛語を稽古する」ことでもあります。私は、ライトさんの「愛語の誓い」を忘れず、怒りや腹立ちの感情を覚えたとき思い出せるよう、稽古したいと思いました。合掌