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202号 感話:「さわる」と「ふれる」本願寺宗報8月号より [ 令和3年10月2日 ]

気持ちのいい季節です

202号 感話:「さわる」と「ふれる」本願寺宗報8月号より  実りの秋です。新米の炊きたてご飯のおいしいこと、食べ過ぎに注意と思いながらついおかわりをしてしまいます。梨やぶどう、イチジクもいただきました。これからはリンゴが加わりますが、台風などの被害が出ないでほしいと願います。コロナウイルス感染者数が減少に転じて1ヶ月余りようやく「緊急事態宣言全面解除」のニュースが流れました。このまま低い水準に保ってほしいです。


前川小学校2年生託念寺訪問 <生活科「町探検」インタビュー>

202号 感話:「さわる」と「ふれる」本願寺宗報8月号より いろいろな質問がありました。私も勉強になりました。。
○お寺はいつからあるのですか。
 前川という集落ができたのと同じ頃
「託念寺」と寺院名を言ってくれました。
○お墓はどうしてあるのですか。
○普段どんな仕事をしているのですか。
 素朴な疑問です。「お寺の役割」「坊さんの仕事」って子どもたちにはどんな風に映っているのでしょう。
○何時からやっているのですか。
 こども園は始まる時間 終わりの時間が決められています。
 お店も開店時間がありますね。
○どうして鐘があるのですか。
 鐘をならすのにどんな意味があるのですかとさらに鋭い質問が追加されました。
○どうしてこども園と一緒にあるのですか。
○どうしてここに建てられたのですか。
○託念寺の中はどうなっているのですか。
 金色は金ですか。


202号 感話:「さわる」と「ふれる」本願寺宗報8月号より 後日お礼状が届きました。一人ひとりの感想が添えられていました。
○わたしはほとけさまが大すきです。またみたいなと思いました。○むかしのことをおしえてくれてありがとうございました。
○はじめてかねをならしました。すごかったところはえどじだいからたてられていることです。
○かねをならしたらいいことがあるんだなと思いました。えどじだいはかねをならすといえにかえるのだとはじめてしりました。
○たくねんじのかねのことや、ごせんぞさまのことをきいてびっくりしました。またたくねんじに行きたいと思いました。


感話 「さわる」と「ふれる」(伊藤亜紗氏:他者にふれる手-触覚的コミュニケーションから考える多様性と利他- 本願寺宗報8月号より)

202号 感話:「さわる」と「ふれる」本願寺宗報8月号より 伊藤亜紗さんは東京工業大学「未来の人類研究センター」で「利他学」をテーマに研究されている方です。国立大学にこういう研究をしているところがあることに素朴な驚きと喜びを感じました。研究の手法も独特です。障害を通して、人間の身体のあり方を研究し、それが利他学につながっていくのです。宗報に載せられたこの記事は、宗門教学会議における提言記録です。
 「さわる」と「ふれる」。これは私たちが普段何気なく使っている言葉です。漢字で表せば「触」であり、英語では「touchタッチ」です。でも日本語では微妙に違いがあって、それを多くの場合使い分けています。「傷口にさわる」というよりも「傷口にふれる」と言った方が、相手の痛みを配慮しながら、思いやりながら、接触しているという気持ちが伝わります。つまり「さわる」は一方的に物体や身体に接触する状況を示すのに対して、「ふれる」は人間的相互的な感情を織り込んでいる表現であると。そう説明されると「確かに」と頷きますね。伊藤さんは視覚障害者の伴走をしたり、自らがアイマスクをして伴走してもらいながら走る経験もされています。今回のパラリンピックで視覚障害者の陸上競技や水泳競技を見る機会が多くありました。マラソンのような長距離だけでなく短距離のレースも伴走者がついていました。視覚障害者の競技というより伴走者と一体となっての「ダブルス」だと感じました。
 伊藤さんによれば、伴走者は、視覚障害者とつないだロープと、見えない情報を的確に言葉で伝えて、安全な走行に導いているのではないというのです。それであれば、伴走者は支援する人、視覚障害者は支援される人という関係に固定されてしまいます。実際は「伴走してあげる」とか「伴走してもらう」じゃなく「一緒に走っている」という感覚に近いし、ロープを通して伝わる触覚は相互的な、双方向的な情報のやりとりです。
 別の状況にたとえて説明すると、講演会などの話しは一方的に情報を伝達しようとしますが、普通に雑談しているときは、発信者と受信者の役割が明確ではなく、関わりの中から話題が生まれてきます。これを「さわる」と「ふれる」に当てはめると、「さわる」は一方的伝達で、「ふれる」は相互的双方向的コミュニケーションがベースになっていると説明できます。私たちの日常のコミュニケーションはこのように双方向的で生成的です。感情や思いの共有も生まれます。


 障害者支援は、一見一方的な利他的行為のように見えます。支援される側はいつも「ありがとう」「申し訳ない」と思わなければいけないなら窮屈な心理状態になります。陸上競技の伴走であっても、伴走している人が共に楽しんでくれるのでなければ、長続きはしないし、本物の支援にはなりません。伊藤さんは自分がアイマスクをして走った経験から、こんなふうに語っています。最初はとっても怖かったのに途中から怖がってもしょうがないと諦めたんです。そうしたらすごく気持ちよくなりました。その気持ちよさは伴走者を信頼する気持ちよさだったと気がつきました。パラリンピックの視覚障害者陸上で、競技者と伴走者がゴールしてともに喜び合う姿を何度も目にしました。
 伊藤さんは「多様性」という言葉で障害者を固定的に見てしまう恐れを指摘しています。本来は一人の人の中に存在する「多様性」に目を向けることが大事です。また、大乗仏教で強調される「利他」について、能動的に何かをすることではなく、自分の中に「スペース」をもつこと、「余白」を持つことが大事ではないか。そうすることで、自分が関わる相手の潜在的な可能性が引き出されたり、逆に自分が変わるということが起こるのではないかと述べています。
 宗門の掲げる「自他共に心豊かに生きることの社会の実現をめざす」を考えるうえでヒントをもらったように思い紹介致しました。合掌


「子どもたちの笑顔のために募金」報告

202号 感話:「さわる」と「ふれる」本願寺宗報8月号より  お盆、お墓参りの時期を含めてお賽銭箱にご協力をいただきました。
6月~8月の総額56,029円を9月17日浄土真宗本願寺派重点プロジェクト推進室宛てにお届けいたしました。ありがとうございました。


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