192号 感話:コロナ禍で見えたみ教えの依(よ)りどころ [ 令和2年12月1日 ]
今年を振り返る
今年を振り返る時節になりました。2020新語・流行語大賞に30語がノミネートされ発表されました。PCRやソーシャルディスタンス、三密などは去年の今頃はほとんど知られていないことばでした。2020年は100年先でも特異な出来事として歴史に刻まれていることでしょう。私たちにはこの先が見えませんが、その後の困難とそれに立ち向かった姿がさらに大きな出来事になっているかもしれません。
冬囲い御礼
その日11月8日は気温も高め、午後の天気予報は曇り、順調に作業が始まりましたが、1時間くらいして雨があたり、次第に強くなりました。それでも天気予報を信じて続行。そしてまさかの強雨。そんな中で皆さんは黙々と最後の片付けまで終えてくださいました。ご覧ください、仕上がりは例年と遜色なしです。その後、恵以真会忘年会が始まる頃にはすっかり雨が上がり、少し恨めしい気持ちになりましたが、これが自然の営みというものでしょうか。それにしてもお手伝いの皆様に唯々感謝でした。
有縁講に行ってきました
バス2台、8寺院から57名が参加して今年も有縁講が実施できました。バスの中はできるだけ一人掛けして、マスクをして、話も控えめ。赤倉ホテルでの昼食はいつもなら、自慢のお漬物や秋の味覚が廻ってきますが、これもなし。ホテルの計らいは妙案でした。これまで伝説に聞こえた懇親会の大きなカニがその姿のままにひとつずつ。宴会の演し物がステージで始まっても、無口にカニに向き合って、席をたってお酌をしないルールに助けられ、カニのいのちをいただき尽くしました。
とはいえ、お仲間との久しぶりの旅行、ご法話でこころが豊かになり、ゆったりした時間の中で積もるお話も楽しめました。お一人おひとりのお顔はかがやき喜びの表情が見えました。それぞれが家に戻って留守を守ってくれた家人に「天気にも恵まれ、おかげさまでいい時間を過ごさせてもらいましたよ」と報告されたに違いありません。
感話 コロナ禍で見えたみ教えの依(よ)りどころ
元上組連研では8月から研修会を再開し、4回開催することができました。しかし年度当初計画したすべてを来年に持ち越し、今年はコロナ禍の中で念仏者がどう行動すればよいのかにテーマを変更し、時間も短縮した対応がとられました。私にとっては、休止期間が続いて何もしないでいることに馴れてしまうことの危うさを感じていたので、実施できたことがまずはよかったと振り返っています。
先般の最終回では、コロナウイルス禍の中で気づかされたことを話し合いました。これまで伝統やしきたりの名で「やるものだ」と、その意味や必要性を深く問うことなく続けてきたものを見直すいい機会になったという意見がありました。長いこと続いたものはその意義が必ずあったはずですが、時代が進み生活環境も地域や家族のありようも変わってきています。
仏事においても見直しが迫られています。お葬式や法事は何のためにするのですか。お寺は必要ですか。坊さんは必要ですか。そんな声まで聞こえてきそうです。
しかしながら、こんな状況に直面したからこそ、仏教や浄土真宗のみ教えに学ぶことが多くありました。仏教がなかったら、親鸞聖人のみ教えに出遇えなかったら私はどんな生き方をしていただろうと思います。そんな折に本願寺ご門主様のご著書が出版されました(幻冬舎刊);
○念仏者がお念仏とともに生きていくということは、そのまま自分以外の誰かのために、具体的な行動をともなうということです。「具体的な行動」とは、多くの人とのつながりを思い、相手を思いやってその時々の状況に応じて行動することです。
○いろいろな地域の産物が、自粛生活で売れなくなっていると聞けば、できるだけ購入して応援したいと思われた方もおられたでしょう。自分の都合だけでなく、他人を思う、人と人とのつながりを思う大切な機会です。
○仏教の教える「まこと(真実)」と向き合うこと。確実なものだと思い込んでいる先行き、こういうものだと思い込んでいる人生のひな型は、あくまでも主観的な願望の混ざった予想でしかなく、これらが大きく揺らぐ出来事がおこったとき、あなたに余計な苦しみや不安をもたらす原因になりかねません。
○仏教では自分の心にある自己中心的な思いが、苦しみのもとであると教えます。自分の主張だけが正しいと思い込むことによって争いは起こります。自分以外の人を、自分と同じように大切にできることが重要です。自分と同じように相手にもかけがえのないいのちがあり、家族があり、日常生活があります。
私たちは一人では生きていけません。人と共に生きているのにいつも身勝手な自分の都合を最優先させています。自分が少しでも損なわれれば、不愉快になります。きっと人と共に生きることは容易ではないのです。努力も忍耐も必要です。では一人でいれば平穏が保てるかと思いきや、孤独の中に居場所は見つかりません。いつも誰かと思いをともにしたいと願い、自分を気遣ってくれる人に出会って温もりをもらいます。こんなやっかいな自分に思い至ったとき、ふと阿弥陀さまのまなざしを感じます。合掌