186号 感話:礼拝(らいはい)すること、お念仏すること、仏さまをおもうこと [ 令和2年6月3日 ]
水田の景色
田んぼに水が入り早苗が涼しそうに揺れています。背景は金倉山です。土手を歩きながら写真を撮り、一番いい角度はここだなと選んだ一枚です。ふるさとの原風景です。好きです。木々の緑も深くなりこの風景を見る限りいつもと同じ初夏の訪れを感じます。皆様お元気でお過ごしでしょうか。
テレビをつければいつでも新型コロナの最新ニュースが見られる、そんな毎日がまだ続いています。今日届けられた大乗を開くと連載のどの記事もコロナのことに触れています。それほどまでに私たちの生活の隅々にまで影響を与えています。それでも緊急事態宣言が解除されて、何とかしてもとの日常に戻るためにみんなが努力をしています。
コロナウイルスのことで気づかされたこと
○病気になっても病院に行けば何かしてもらえる。これが安心だったのです。ほんの一昔前は治せない病気がいっぱいありました。いつの間にか何でも治してもらえると思い込んでいました。老衰までも。父が亡くなる前、病院に駆け込み、「何をお望みですか?」といわれてハッとしました。
○見えるものは少しだけ。お供えしたお花も日が経つとしぼんできて葉っぱも色が変わって終いに落ちます。ユリは雄しべに花粉をつけますが、それも粉になって落ちてしまいます。それが洋服に触れるとシミになって落ちません。その花粉ですが、その小さな粉に遺伝子をぎっしりと詰め込んでいるのです。私たちの目に見える世界は所詮はおおざっぱなことです。そしてコロナウイルスは一体どれくらいの大きさなのでしょう。0.1ミクロンだそうです。1㎜の千分の一が1ミクロンでその10分の1です。そんな小さな物質にたくさんの情報が組み込まれ人の命を奪っていきます。そしてその仕組みも実態もまだよくわかりません。分かっていることより分からないことの方が、見えることより見えないことの方がずっと多いのです。
○やっぱり人と係わり合って生きがいがあったのです。法座ができなくなって日曜日はのんびりしていました。準備もないのでラクでしたが、ラクをしていることがどこか落ち着かなくて、家の中の片付けや掃除などそれなりの成果もありました。ある日の夕方台所に立って「にしんの生姜(しょうが)煮」に挑戦してそこそこの満足もありました。でもお会いしてそれをお話しする機会がありません。やっとお伝えできました。
写真はツツジの花に蜜を求めているのでしょうか。チョウチョです。
感話:礼拝(らいはい)すること、お念仏すること、仏さまをおもうこと
この間、ご法話を聴聞する機会もウンと減りました。かつてあるご門徒さんが「み教えのご聴聞はこころの栄養です。欠かすと栄養失調になります」とおっしゃったことを思い出します。もう欠乏を感じておられる方もあるかもしれません。
今月の1冊を紹介します。設楽峻麿(しがらきたかまろ)著「現代親鸞入門」(法蔵館2010) です。先生は数年前に新潟親鸞学会で特別講演をされたのですが、私は所用があって聞くことが出来ず、その2年後にご逝去されました。その講演録(新潟親鸞学会紀要第10集)を読んでどうしてももっとお話を聞きたい気持ちになりました。宗門大学である龍谷大学学長を務められた経歴もおありですが、本山批判とも取れる発言もあります。批判を口にすることはかなり勇気の要ることです。でもそれを超えて先生の親鸞聖人に出あえた思いが随所にあふれています。「86歳になります。病気もいっぱい抱えています。今日のタイトル『仏を信じたら、人間は変わるか』は、いのちある間に遺言をのこしておこうと思ってつけさせてもらいました。」とそんなことばで講演がはじまっています。上に記したご本は大いなるこころの栄養になりました。
正信偈に龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)がでてきます。大乗仏教の仏道に「難行道」「易行道」があると説かれ、「易行道」とは、日常の具体的生活においては「礼拝すること」「称名すること」「憶念すること」であり、これなら誰でもが実践できる仏道でまさに易行であると解説されてありました。そして仏との出遇いが成立します。
私は、大切なことは毎日実践できる「行(ぎょう)」があることだと思いました。今、夕方鐘撞きをすると、ちょうどその時間に降園する子どもたちが何人か来てくれます。ゴーンとならした後に「仏さま今日一日どうもありがとうございました」と手を合わせ、礼拝します。パパもママも自然に礼拝されます。それだけですが、子どもたちの姿に心が洗われたようになります。こうして仏さまに出会っていくのですね。
ご家庭にお仏壇が広まっていくのは江戸時代になってからだそうです。ご家庭のお仏壇を「お内仏」ともいいます。お仏壇がお家にあることで、「お参りし(身体表現の合掌と礼拝)、口ではお念仏を称え(称名)、こころでは仏さまをおもう(憶念)」という三つの行が毎日できますね。
最近のことですが、お葬式がありました。この時期でしたので通夜振る舞いも会食もありませんでしたので、ご遺族やご縁のある方とお話しする機会がずいぶん減ってしまいました。そんな中ですが、嬉しいことがありました。亡くなった方は80歳過ぎのMさんというおばあさんです。お子さんが二人、お孫さん五人に恵まれた方でしたが、出棺の挨拶で故人の弟さんがお話下さいました。「姉はご主人の後添(のちぞい)でした。先妻は病気で亡くなられたのですが、二歳になったばかりの坊やがいました。姉が嫁ぐとき私たちの母親は姉に何度も言いました。二歳の坊やを自分の子どもだと思って可愛がるんだよと。その言葉が今も耳に残っています。姉はそうして育ててくれたのだと思います」と。このご家族は数年前に、坊やの生みの母親つまりご主人の先妻の50回忌法要をされました。私はそのときはじめてMさんともお話をしたのですが、ご主人にとっては、先妻への思いとMさんへの感謝を込めてのご法要だったのだと思い知りました。手を合わせ、お念仏されたご遺族の、Mさんへの思いを感じました。合掌
写真:親鸞様お像台座に一輪挿しをおきました。境内に咲いたお花を供えました。子どもたちもお供えしてくれるかな。