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175号 感話:ウパスターナ:傍らに立つ、共にいる、寄り添うこと [ 平成31年7月5日 ]

庫裡法中座敷修復リフォームが終わりました

175号 感話:ウパスターナ:傍らに立つ、共にいる、寄り添うこと  昨年はこの時期にあまり雨が降らず夏は猛暑になりました。今年はそれらしい雨に恵まれています。雨のことで言えば、雨漏り対策で修復リフォームをしていた庫裡法中座敷工事がほぼ終わりました。工事が始まると土台と柱や梁を残して骨格だけになりましたが、終わってみると元の座敷が再現したようにできあがりました。中越地震で生じていた歪みも補正され、すごい腕前です。吉原建設の星野勲さん(世話方でもあります)には大変お世話になりました。わがままもたくさん聞いていただいて感謝です。また行程ごとにエキスパート(職人さん)が入って工事が進められます。私が見に行くと星野さんはその職人さん方の自慢をされました。この方々に任せてたら大丈夫だと。本当にそうなんです。ですから工事の進み具合を見るのが楽しみでした。7月のはじめには引き渡しになります。そうしたらどうぞご覧になって下さい。


「小児往生」のお話し

175号 感話:ウパスターナ:傍らに立つ、共にいる、寄り添うこと  恵以真会研修旅行で新井の願生寺様をお訪ねしてきました。願生寺様は江戸時代の中頃、「小児往生」をめぐって大きな事件があり、そのことで長いこと「願生寺」という寺号を取り上げられていました。新潟教区門徒推進員連絡協議会の6月法語には「聞其名号信心歓喜 名号のおいわれを聞かせていただいて 信じ喜ぶこころがおこる」 と記されています。私たちは阿弥陀さまのおはたらきによりお念仏ひとつでお浄土に往生して仏にさせていただくのですが、子どもの場合はお念仏が言える前に亡くなるかもしれないし、たとえお念仏しても、その謂(い)われも聞かないのでは往生はできないかもしれません。そんな不安がご門徒の間におこり、「往生できるか、できないか」の大論争になりました。往生できないとする主張の中心にあったのが願生寺でした。結局その主張は認められずにお取りつぶしにまでなったのでした。今の願生寺様はむしろ地域の子どもたちへみ教えを伝えることに熱心に取り組んでおられ、それを研修の目的に訪れたのでありました。


175号 感話:ウパスターナ:傍らに立つ、共にいる、寄り添うこと  戻ってからの日曜法座でこんなお話しをしました。10年以上も前になりますが、「千の風になって」がとても流行った頃のことです。前島町の室橋二三(ふみ)さんが「私は若いときに二人の子どもを私の不注意で亡くしてしまいました。お浄土に往ったら子どもたちに会えるでしょうか?」と尋ねられました。私は「倶会一処(くえいっしょ)の世界が用意されていますから間違いなく会えると思います」とお応えしました。その時の室橋さんの嬉しそうなお顔が思い出されました。法座が終わると念仏者のYさんが「小さな子どもはたとえ念仏を称えられなかったとしても、親にお念仏とのご縁を取り次いでくれたのですから、それが仏に成られたことの証ですね」と話しされました。深く頷(うなず)かされました。室橋さんは長い間日曜法座に通われていました。わが子を亡くした悲しみがお念仏へのご縁をひらいてくださり、還相の仏さまになられていたのだと改めて思いました。


感話 ウパスターナ:傍らに立つ、共にいる、寄り添うこと

175号 感話:ウパスターナ:傍らに立つ、共にいる、寄り添うこと  今年の元上組さわやか講話会が6月22日に専徳寺様で開催されました。坊さんでスクールカウンセラーの坂井祐円さんのご講話でした。学校では、不登校、いじめ、自死などへスクールカウンセラーが対応するようになってきました。坂井先生によれば、カウンセリングはすぐに目に見えるような結果が得られるものでないし、それを期待することでもないとおっしゃいました。ただ聞くことが大切で、カウンセリングの用語では「傾聴」ですが、仏教では「聞法」に通じます。ひとりで悩んでいるとき、自分のことを誰かに分かってもらいたいと思います。誰にも分かってもらえないと思うと孤独を感じます。「自己不肯定感」のようなものでしょうか。人のこころの中は見えませんし、自分のこころの中も実はよく見えていません。だから話したからといって理解してもらえるかは分かりません。聞いてもらえたと思っても、自分のことが分かってもらえたかは確信が持てません。
 坂井先生は「看病」の語源についてその謂われも含めてお話し下さいました。お釈迦さまは「ブッダに仕えようとするものは病者を看病せよ」とおっしゃり、それが「ウパスターナ」ということばで「看病」と訳されました。ウパスターナの本来の意味は「傍らに立つ、共にいる、寄り添う」です。病気になった人が苦しんでいるとき、医者は薬を与えますが、私たちはただ傍らにいることしかできません。身体の病気も、こころの病いもすぐに治せるものではありません。どんなに医療が進歩してもいのちの終えるときは必ず訪れます。私の父が亡くなる1週間前、何も食べることができなくなり中央病院の外来に飛び込みました。富所先生(現在は病院長)にたまたま診ていただきました。先生は延命を望まないのであれば、家で最後まで過ごすことができます。しっかり手を握ってやることでいいのですと、おっしゃってくださいました。私も父もこのことばで覚悟が定まり、気持ちが楽になりました。そばにいればいいんだと。それがまさに「看病」であり、お釈迦さまのおっしゃった「ウパスターナ」だったのだと思いました。私たちの安心は、傍らにいてもらえることが一番大切なのだと気づかされました。
 家族とはそんな役割を一人一人が果たしていくことであり、仏さまの存在もそこにあると思いました。仏に成って今度は私たちのそばに居続けてくださること、感謝です。合掌 


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