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155号 感話:坊さんへの志し [ 平成29年11月7日 ]

紅葉がきれいな季節です

155号 感話:坊さんへの志し  10月22日は衆議院議員総選挙がありましたが、台風21号が新潟にも接近して大雨と強風をもたらしました。翌23日は渋海(しぶみ)川が増水して避難準備情報が越路地域に出され、信濃川は長生橋が一時通行止めになりました。長岡花火の桟敷席は全部冠水し、その時間に大手大橋を通られた方は東西堤防の間を川幅いっぱいに流れる信濃川が怖かったそうです。この日は近隣の宮内小学校、上組小学校が臨時休校となりました。後日、前川地区合同防災訓練の開会式で前川小学校和田英史校長先生が「前川小は休校としませんでした。それは普段から地域の方々が交通安全パトロールで子ども達の登校をしっかり見ていてくださるからです。これはこの地域の誇れるところです」とご挨拶されました。前川地区協議会長の室橋真さんは「自然災害に対する防災では日頃から隣近所のつながりが大切です」と話されました。私たちの地域は助け合ってきた歴史があります。その風土を守っていくことが防災、防犯の上からも大切なのだと改めて思いました。

写真は保育園児が収穫した柿です。


お念珠教室

155号 感話:坊さんへの志し  10月22日 恵以真会の主催で開催しました。
研修旅行で光照寺様を訪れた際に坊守様がすてきなお念珠を見せてくださいました。それに魅せられて託念寺でもお念珠づくりが実現しました。さまざまな色の天然石を自分で選び、自分でデザインして作りました。1時間30分、ご講師の先生方に教えていただきながら30名の参加者全員が「マイネンジュ」を仕上げました。ここでも「みんなちがってみんないい」でした。園児も小学生も皆すてきな念珠を手にして嬉しそうでした。


お念珠教室 その2

155号 感話:坊さんへの志し 写真は出来上がったお念珠です。ステキでしょう。
参加者から「飾っておかないで使いましょうね。」
会員からは「恵以真会行事ではいつも持参しましょう」


感話:坊さんへの志し 長岡ペンクラブ「ペナック42号」p148-149 平成29年6月発行 より転載

155号 感話:坊さんへの志し 永代経報恩講へ向けて祖父の思い出です
 子どもの頃の記憶は古くとも鮮明だ。そして人の生き方に大きな影響を及ぼすように思える。私は寺の長男として生まれた。生まれたときから家には坊さんである祖父がいた。坊さんの原形はなんといっても祖父で、祖父のような人が坊さんなのだと思って育った。寺の長男は寺を継ぐことが運命づけられて、家族もそれを期待しているが、当事者は必ずしもそれを快しとせず、反発することも多いと聞く。私は不思議と坊さんになりたくないと思ったことがない。むしろ積極的に坊さんになりたいと口にした。小学校高学年の頃大型の三角定規にマジックでいたずらで、私の人生設計を書いた。前川保育所から始まり、小学校、中学校、高校、大学と自分が進むだろう進路を書いた。新潟大学大学院まで書いて、職業は新潟大学教授。退職後は僧侶と書いた。祖父の年齢になったら坊さんになっていることを自分の歩む道としてイメージしていた。
 世間的に言えば坊さんはお葬式が連想されるが、お葬式をする祖父の記憶はほとんどない。また、意味が皆目分からないお経もイメージされるが、これもまた祖父には当てはまらなかった。でも祖父は朝晩のお勤めを欠かさなかった。これは「しんじんのうた」(意訳正信偈)や「ちかいのうた」(意訳重誓偈)といって日本語で書かれたものであった。「門前小僧習わぬ経を読む」のことわざのとおり私はすぐに覚えてときどき一緒にお参りをした。のちに大学一年のときに本願寺で得度を受け僧侶になったが、この得度習礼は「ビックリ ポン」だった。祖父が普段読む和文の「しんじんのうた」も「ちかいのうた」も勤行のルーチンに入っていなかった。そして寺に育っていたら誰でも知っていると思われる「阿弥陀経」や「正信偈」は殆ど知らなかった。振り返ってみると私の坊さんへの志しは少し別のところにあったように思える。
 祖父のような生き方を真似たいと漠然と頭に描いていた。祖父を見てそう思っていたのだ。質素で、まじめで、ものを粗末にしないで、本を読み、字を書き、寺ではお説教をし、地域の人からは尊敬されていた。少なくとも私にはそのように映った。


155号 感話:坊さんへの志し  私にとっては、祖父の日常生活こそが坊さんであった。朝は早く起きてお風呂で乾布摩擦をする(私が生まれる前は水をかぶっていたという)。ご飯のときは、正座して食前のことばに始まり、食べ終わると茶碗にお湯を注ぎたくわんで食器をきれいにして、箸もそのお湯で洗って水を切って箸箱に入れる。食後のことばで終わる。「モッタイナイ」が口癖のように出た。鼻紙はお布施を包んだ紙を裏返しにして使い、使った後それをまた乾かして使う。
 祖父は明治21年生まれ、どういう理由であったか分からないが、若くして東京に出て日本体育専門学校でデンマーク体操を教えていた。職場の上司に柔道の三船久蔵がいたことが自慢であった。30歳の頃に住職をしていた父親が亡くなり、長岡に戻されて坊さんになった。「若いときは、イヤでイヤでしょうがなかった」坊さんであったが、孫の私には仏法に出遇えた仕合わせを繰り返し語った。
 祖父は仏法の何に出遇ったのであろうか。祖父の遺稿法話集「聞法」には、煩悩に充ちた我が身と向き合うことばが随所に出てくる。「威張る根性のあるうちは、仕合わせにはなれん」「一番たやすくて、一番難しいのは、ありがとうと手を合わすこと これのないところには、真の仕合わせはこぬ」等々。親鸞聖人に学び、お釈迦様の生き方に仕合わせの有り様を気づかされ、法義を伝えることに熱心であった。また保育所の開設など社会福祉の仕事にも尽力した。こんな祖父の姿が、私には今日まで変わらぬ坊さんの姿として有り続けている。


155号 感話:坊さんへの志し  祖父の人生最後の仕事は、保育園園舎の建設であった。それまで寺の本堂と保育所との境がはっきりしない状態であったが、寺から独立した鉄筋の保育園園舎を建てることに尽力した。昭和40年代の初め、自分の全財産を投じて二期に分け三年越しに完成した園舎。その竣工式を盛大に祝ってもらった数日後に脳卒中で倒れた。
 私は、50歳を過ぎて、筑波大学の定年を10年以上残して退職して住職となった。今私は子どものときに出会った祖父の年齢に近づいている。祖父は日曜法座(当時はお朝事と言った)のために、鉄筆、ガリ版で原稿を書き、謄写版(とうしゃばん)で印刷をした。私はそれを手伝わされた。その日曜法座は祖父が築いた財産で、父も受け継ぎ、私も何とか続けさせてもらっている。ひとりでも多くの人と仏法にであえた喜びをともにしたいと思う。合掌



写真はお念珠教室に参加した子ども達の合掌姿です。
祖父の喜ぶ光景に違いありません。


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