平成26年4月号 感話:思いのズレはそのままに [ 平成26年4月4日 ]
家族礼拝の日 御礼
3月21日は冬の寒さの中大勢の方々にお参りいただき、鷲尾洋のフルートミニライブに耳を傾けていただきました。ヨーロッパの国々から日本の曲まで聞き覚えのある小品を演奏してくれました。30分の予定が、拍手に乗せられて10分ほど延長し、本人も楽しんで演奏していました。
鷲尾洋からのメッセージ:
この度の帰国は短かかったけれど、とても充実していたと思います.演奏もと てもたのしくやれた事は有意義でした。また皆さんに本当に喜んでいただいた事、とてもうれしく思います。
前川小学校卒業生が仏前に礼参
6年前保育園を巣立った子どもたちが大きく成長して立派な姿を見せてくれました。「しんじんのうた」をお勤めし、ひとりひとりが感謝とおかげさまの思いを込めてお焼香を致しました。
小学校3年の夏、暁天法座で『もったいないばあさんと考えよう世界のこと』を朗読してくれました;
同じ地球に暮らす9才の子どもなのに、どうしてこんなにちがうのでしょうか?「わたしたちさえよい生活ができれば、ほかの人はどうでもいい」と言えるでしょうか?
自分さえよければ、という考えをもたず、分け合う気持ちがあれば、平和な世界がかならずできると思います。どうしたらみんなが幸せに暮らしていけるかを、みんなで考えていきましょう。
感話 思いのズレはそのままに
朝ドラ「ごちそうさん」が終わりました。毎朝、楽しませてもらいました。涙しながら、ときにはドラマの中に引き込まれてめ以子のやるせない思いを共有していました。悠太郎さんが最後に笑顔で戻ってきてホッとしましたが、次男「かっちゃん」の戦死を悠太郎さんにどのように伝えたのでしょうか。戦争の愚かさを訴える西門家家族のその後も続編として見たい気がしました。
毎月最後の日曜法座は「今月の法語を味わう」ことにしています。3月は、「帰ってゆくべき世界は 今遇う光によって 知らされる」でした。いのちが終えることを「帰って行く世界」「仏の世界(彼岸)に生まれる」ととらえることは、今を生きる生き方につながっていると思います。彼岸は、私たちが今生ではなしえないけれど、めざさなければならない世界として私たちに示されているのだと思います。それが今遇う光によって知らされるのです。お正信偈のご和讃に「遇斯光(ぐしこう)」ということばが出てきます。阿弥陀様から照らされる光に遇うことによって、私たちがめざさなければならない世界が示されるのです。金子みすゞさんの「みんなちがって みんないい」は、この光に遇うことによって生まれた詩であったのです。
私たちはさまざまに人と係わって生きています。自分にとって大切な人もたくさんいます。でも大切な人でも思いや考え方のズレは頻繁に生じます。ずれるといらだつこともあります。お彼岸にあわせて弟が里帰りして、ふたりで話をする時間がそれなりにありました。弥彦山の麓にある「だいろの湯」に誘ってドライブし、弥彦神社の周辺をウォーキングして、父のこと、母のこと、私たちが受けた子育てのこと、東日本大震災後の原発のこと、エネルギー問題のこと、ロシアのクリミア侵攻のこと、など、思いつくままに自分の考えを述べあったりしました。兄弟で遠慮がありませんから、考え方がずれたりすると「そうか」「そういう考え方もあるな」と頷くことよりは、反論すること、相手の考えを正そうとする言いぶりが多くなってしまいます。私はつい興奮した口ぶりになるのでしょう。「なんですぐに怒って話すの」とたしなめられ、それにまた反論するというたわいもない会話を何度も繰り返しました。
人の意見に耳を傾けることは、身近な関係であっても難しいことです。弟がふと「『おごり たかぶり よこしまの』というしんじんのうたの文言をドイツにいても時々思い出すんだよ」とつぶやきました。思いのズレはそのままに、「オレがオレが」と我を張る戒めをともにした一瞬でありました。合掌
なむ街道を歩く25日間の旅
4月1日(火)「親鸞となむの大地展」のプレイベント「なむ街道を歩く25日間の旅」の出発式が京都岡崎別院でありました。私も実行委員の一人として出席しました。全行程参加者17名とともに初日の21kmをウォーキングしました。京都市内にある仏光寺、西本願寺、東本願寺、大谷本廟に参拝し、一路大津に向かいました。穏やかなお天気に恵まれ、各所で満開の桜を楽しみながら歩くことができました。大津駅に着いたのは午後4時過ぎ。落伍者もなく笑顔でゴールでした。ゴール手前でふと振り返ると遠くに琵琶湖が見えるではありませんか。ちょっとした感激でした。
全行程の方々はこのさき雨の日もあるでしょう。私は21日に柿崎から柏崎までもう一度歩きます。そのときの再会を約束してお別れしました。