105号 感話 「私は○○のためにこの世に生まれてきました」 [ 平成25年9月8日 ]
秋風吹いて夏を振り返る
全国的には暑い夏でしたが、長岡は7月、8月と35℃を超えた日はなかったそうです。そして今は朝方冷気を感じるほどになりました。暑さからの解放は嬉しいのですが、これからはひたすら冬に近づくと思うとちょっと寂しいです。
今年も夏の行事を執り行うことができました。多くのご支援のおかげです。ご支援の一つ、境内の草取りを恵以真会の皆さんでやっていただいたのですが、記念に撮ったはずの写真が撮れていませんでした。ごめんなさい。
盆参、暁天(ぎようてん)法座、盆踊り大会、お墓参りと大勢の皆様にご参拝、ご参集いただき、お御堂や境内が賑わいました。
暁天法座は昭和60(1985)年に始まり、平成3年までは連続5日間、翌年から現在の連続3日間になりました。今年は29回目でした。5日連続で行っていた往時を偲び「ナンギかったな。5日目になるとサンザになった」と大先輩方がそのご苦労をお聞かせくださいました。そして今年も「東日本大震災」、「保育園児と共に」、「戦争、前川の記憶」をテーマに実施することができました。これらの内容は恵以真会報で特集されると思います。楽しみにしてください。
寺島実郎さん、親鸞聖人を語る
8月5日、小林章栄さんの車に乗せていただいてワゴン車の定員いっぱいでお仲間と共に上越市の講演会場に赴きました。寺島さんはその前日TBSの「サンデーモーニング」に出演され、いつもの歯切れのよい発言をされていました。今や国際関係の中の日本を語る第一人者となっておられます。その寺島さんが親鸞聖人をどのようにとらえてお話しされるのか興味津々でした。
最初にお話になったのは弘法大師「空海」との比較における親鸞像でした。空海という人は自他共に認める稀にみる天才であると位置づけられました。現代社会でたとえて言うならば、アメリカに留学してハーバード大学の学長になって帰ってこられたようなものだと。さらに空海という人を調べてみると、自分には落ち度が一つもない完璧な人間だと自分自身それを信じて疑わなかったとその天才ぶりを表現されました。こう書けばすぐに親鸞聖人との違いに気づかれると思います。私たちは「聖人」とお呼びしますが、ご自身は「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず」と述懐されました。決して自分が優れた人間であるとは言わず、善悪もわからず、人を助けることはできないし、欲望を抑えることもできないと吐露される親鸞さんを、寺島さんは「目線の低さを感じる」と表現されました。そういわれてみれば後世の人から見ればお二人はそれぞれに天才ですが、自分に向けた視線がこれほどに対比的であることに改めて気づかされました。これは、国家護持の仏教と、民衆目当ての仏教の違いにも通じます。
寺島さんはまた、尖閣諸島や竹島の領有権を巡って中国、韓国との関係が悪化し、「プチナショナリズム」が広がっていることに懸念を表明されました。偏狭なナショナリズムは、他を非難するのに多少勇ましく、どこか溜飲をおろすに似た心持ちを引き起こします。私たちの心根は今も昔も、自分の利や意に反するものを倒して、相手を凌駕したいと思っているのでしょうか。まさに「恥ずべし、傷むべし」です。
外交という世界では、親鸞聖人の示された「目線の低さ」と我欲と慢心を恥じる姿は非現実的で通用しないものなのでしょうか。でもその一方で親鸞聖人のひるまない意志の強さは並々ならぬもので、外交でも力を発揮しそうです。あの強さが「如来よりたまわりたる信心」の所以でしょうか。
寺島さんの語られたところから少し外れてしまいました。寺島さんの講演の要旨は10月半ばに新潟日報の「親鸞となむの大地展」全面広告の中で紹介される予定です。
感話 「私は○○のためにこの世に生まれてきました」
暁天法座2日目、保育士さんによる絵本「八郎」(斎藤 隆介著)の朗読がありました。八郎は大きくなりたいと願い、どんどん大きくなりました。やがて感動の場面がやってきました;
田んぼを必死に守る農民に怪物のように襲いかかる海、何とか助けてくれと泣いて訴える子ども。
八郎は、どうして自分がこんなにも大きくなったのか、その訳を「わがった!!」と叫んだ。
「おらはこうして おっきく おっきくなって こうしてみんなのためになりたかったんだ」
荒れ狂う海と戦い力尽きた八郎だったけれど、やがて海は穏やかになった。
私たちにはそれぞれにいのちの役割があると思います。生かされているいのちであれば、そのいのちの役割を果たしていきたい。表題○○の中に適当な言葉を入れてみてください。
ひとにはその時その時に私でなければできないことがあります。「あなたに出遇うために生まれてきました」と告白されたら、私はなんとしてでもと思います。親子でも、夫婦でも。合掌