99号 感話:色は空 空は色との・・・・ [ 平成25年3月6日 ]
真冬に逆戻りも
寒かったですね!2月23、24日はこの冬一番の寒波でした。24日、日曜法座の前に暖房を入れようとお御堂に行き、ふと参道を見ると雪かきをしてくださった方がおられました。参道の雪や冷え込みでの凍結が心配でした。そしてたくさんの方々のお参りがありました。本当にいろんな方に支えられています。感謝、感謝です。3月になれば間違いなく気温が上がります。どうぞ日曜の「おあさじ」にお参りください。
そして3月になりました。春の日差しが嬉しいです。
写真は本堂と墓地の間の通路です(3月6日)。除雪をしていただいているのですが、雪の深さがわかります。今も1mの積雪があります。
3.11 あれから2年
被災された岩手県大槌町の寺院で梵鐘(ぼんしょう)が再鋳されることになったという記事を見ました;「当初は犠牲者を悼む鎮魂の鐘と考えていたけれど、希望の鐘になればという気持ちが芽生えた」とご住職のことばが載せられていました(2.28朝日新聞)。NHKテレビでは、妻、息子夫婦、孫娘を失っておひとりになられた70歳近い男性が、「家族が亡くなった家をその場所で再建したい」と希望を持って語っていました(2.27 ニュースウオッチ9)。
希望を持つことが生きていく上でとても大切なことなのですね。私たちにどんなことができるのだろうかと考えます。そのヒントが希望を感じられる「何か」です。先般2月7日、当院(前川保育園副園長)が保育園児の折った千羽鶴を携えて、宮城県の被災地にボランティアとしてひとりで出かけました。出かける前に園児に千羽鶴の協力を呼びかけ、戻ってきてその報告をしました。ボランティア活動は津波にあった耕作地の土壌快復の支援だったようです。荒れた田んぼや畑を小さい力ではあっても一緒に作業に加わってくれる人がいれば少しは元気や希望をもらえるのだ思います。
託念寺でも3月11日(月)午後2時46分に「響流十方(こうるじつぽう)」の願いを込めて希望の鐘をならします。聞こえたら一緒に合掌しましょう。
こども涅槃会
2月15日は涅槃会です。
涅槃会とは、お釈迦さまの入滅(亡くなられた)された2月15日の行事のことです。全国の寺院では2月14日より「仏涅槃図」(ぶつねはんず)が掛けられます。
お釈迦様が入滅されるとき、頭を北にして西を向き右脇を下にした姿(頭北面西右脇)で臥し最後の説法をされました。
前川保育園では2月14日にお参りをいたしました。
この日は明治14年(1881年)に託念寺が火災に遭った日でもあります。今お内陣にご安置されている阿弥陀如来座像と親鸞聖人と蓮如上人の脇掛け、聖徳太子と七高僧のお軸をやっと持ち出し、後はすべて燃えてしまった痛恨の日でもあります。子どもたちにそんなお話をしました。
感話 色は空 空は色との・・・
法話にはちょっと笑いがこぼれるお話しがあります。黄檗(おうばく)宗という禅宗の一宗派があります。その開祖、隠元(いんげん)さんにこんな譬(たと)え話があるそうです;
雨の多い季節に隠元さんが若いお坊さんを連れて旅をしていました。道を歩いていくと増水した川で、前に進めないで困っている容色端麗なご婦人に出会いました。隠元さんは、「お嬢さん、私が負ぶって向こう岸まで届けて差し上げましょう」と言って、着物の裾をたくし上げてお嬢さんを負ぶいました。隠元さんは、柔らかな女性のからだを感じて気持ちよさそうに負ぶっておられました。ともかくもこのお嬢さんは、安心して負ぶわれて無事に渡ることができました。
隠元さんはそこでご婦人にいとまごいをして、また連れの坊さんと歩き始めました。ところが連れの坊さんは何だか不機嫌な様子です。どうしたのです?と尋ねると、
和尚さんは普段言っていることとさっきの振る舞いと違うじゃありませんか。お坊さんは若い女性の身体に触れてはいけないのではありませんか。
なに、お前さんはそんなことで怒っていたのか。私は渡し終えればそれでお終い。それだけのことです。お前さんは、私だけがいい目をしたといつまでもその悔しさから解放されない。だから怒っているのだ。まだまだ修行が足りないね。と諫(いさ)めたそうです。なるほど禅の教えとはかくなるものかと。
話しは飛躍するかも知れませんが・・・
市川團十郎さんが辞世の句を遺されていました;「色は空 空は色との 時なき世へ」。
ご葬儀の挨拶で喪主海老蔵さんが涙をこらえて紹介しました。「色即是空 空即是色」は般若心経にあることばです。形があると思ってもそれは不変な形で存在するわけではありません。何か実体あるものにすがろうとしても絶対に不変のものはないのです。止まっていて欲しいものが止まらない。お釈迦様は、いつまでも変わらないでいて欲しいと願うところに苦が生じると説かれています。「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ」の世界です。私たちは失いたくないから失ったときに悲しく感じるのです。「とらわれから解放されれば、苦から解放できる。それを実行しなさい」と説かれます。でも悲しいかな、私たちにはそれができないのです。團十郎さんは、「色は空 空は色との 時なき世へ」とパソコンに打ち遺してなお、臨終のそのときまでこの世への思いが消えなかったのではないでしょうか。私たちは煩悩(執着(しゅうぢやく))ゆえに人との情を深めさせてもらっているかも知れません。合掌