97号 感話:浄土真宗のみ教えをお伝えする役割 −自信教人信− [ 平成25年1月7日 ]
謹賀新年
新しい年のスタートです。今年はよい年になりますようにと願いたいですね。願って叶うわけではありませんが、そうなるように努めたいです。
お正月の楽しみのひとつに年賀状があります。どさっと束になって届けられます。普段は不義理をしている人から写真やメッセージが添えられていると懐かしくうれしい気持ちになります。
てらだより紙面を利用して年賀状も合わせてお届けいたします。6月30日に恵以真会研修旅行で石巻の称法寺さまを訪ねましたが、本堂は痛々しい姿で私たちに津波の凄まじさを伝えてくれていました。そして1年以上経てまだこの状態であることにことばを失いました。真冬に突入した今、寒風の中でどこまで復旧が進んでいるのでしょう。今年もう一度訪ねたい。そして復興するまで応援したいと思っています。託念寺本堂のお賽銭箱を今年も復興支援に役立てます。どうぞご協力をお願いいたします。
東日本大震災義援金・支援金 報告
<募金額12月28日現在>
181,424円
昨年からの累計:424,902円
本願寺たすけあい募金・石巻市被災寺院御見舞としてお届けしました。今年も継続いたします。ご協力をお願い申し上げます。
年賀状に写真をつけました。
1.孫たちの成長 私たちはその分人生を重ねています。
2.6月30日 石巻 称法寺様 今はどこまで復興が進んだのでしょう。
3.8月12日 恵以真会主催 盆踊り大会の復活 今年も続けましょう。
感話 浄土真宗のみ教えをお伝えする役割 −自信教人信−
暮れも押し迫る去る15日、託念寺本堂において「前川の歩み」編集作業進捗報告会が行われました。前川小学校の校長先生はじめ大勢の方からお集まりいただきました。青山町の岸和義さんからスクリーンに映された資料に基づいて説明がなされました。前川の誕生はいつ頃であるのか、度重なる信濃川の氾濫によって村立てがどのように変遷してきたのか。確定的なことは言えませんが、早くて1500年代の前半、遅くとも1600年代前半にはこの地に集落が形成されていたようです。地元に現存している資料はそれほど多くはありません。村絵図としては寛延3年(1750年)のものが遺っていて、前島村に託念寺が記されその西に前島の集落、さらにその西に青島の集落が位置しています。今とはかなり違います。等々、近年にいたるさまざまな歩みを整理しています。どうぞ将来刊行される時を楽しみにして下さい。
私は前川地区で寺がどのような役割を担ってきたかを担当しています。日本の歴史を見渡すとずいぶん昔のものが残されているものだと感心しますが、いざ自分の身近なところを振り返ろうとするとすぐに闇の中に入り込んだ気分になります。そんな中で江戸後期から明治前期にかけて住職を務めていた3代がたくさんの筆書きの和綴じの講義録を残しているのです。7代住職廓證(かくしよう)、9代住職祐了、10代住職了凢(りようはん)です。全て和綴じ本で70冊あまりです。本堂に並べてみましたが、それなりの分量です。中身はというとすべてが仏教関係のものでかつ自筆のものです。中でも了凢住職のものは58冊を数えます。おそらくそのほとんどが九州博多の万行寺で七里恒順師のもとで勉学していたときのものと思われます。教行信証やご和讃についての講義録であることは分かるのですが、何か当時の人間関係や暮らし、日記風の私記などがないかと虫食いの和紙をめくり調べました。まだ、整理して報告することはできませんが、すごい熱気を感じる筆遣いがいくつか発見されました。祖父(11代住職顕昭)が存命の時にもっと聞いておけばよかったと悔やまれます。そうは言ってもプラス思考で振り返ってみれば、祖父にさまざまなことを聞いていたとも言えます。了凢住職は博多で勉強して学者になろうとしていたこと、その父祐了住職は村の人への教化に熱心であったことなど。それらが今これら自筆本で伝わってきます。
了凢青年は明治12年に恒順師の門をくぐり半年後に父親の病気のために長岡に戻され、その半年後託念寺が全焼します。それにもめげず再び博多に戻って勉学を続けたのです。当時の本願寺門主は恒順師を本山に呼び寄せたのですが、恒順さんは勧学(本願寺最高学位)を断って博多で私塾を開き浄土真宗改革の礎を築かれました。田舎の小さな寺の青年がどんな思いで博多まで出向いたのでしょうか。それを父親はどんな思いで支援したのでしょうか。自信教人信。自ら学んで浄土真宗のみ教えを広めようとしたのでしょう。その意思が今日まで伝えられてきているのです。私は62歳になりました。祐了・了凢住職はともに60歳で亡くなっています。共に学びましょう。共に聴聞しましょう。