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86号 感話:涅槃会 [ 平成24年2月3日 ]

大雪

86号 感話:涅槃会  大寒が過ぎてこれからは徐々にあたたかくなると期待したのですが、今年の最も寒い時はこれからやってくるようです。テレビでも「一段と厳しい寒さ、大雪に警戒してください」と報道しています。この寒波に先んじて、1月14日に庫裏の雪下ろしをしていただきました。8人の方々にお難儀を願いました。私は情けないことに腰痛を抱えて、一緒に屋根に登れない状態でした。申し訳ない気持ちで皆さんのお仕事ぶりを眺めるだけでした。今秋刊行予定の前住職遺稿集にご寄稿いただいた中に雪下ろしのエピソードが綴られていました。刊行前ですが、紹介します;


86号 感話:涅槃会  今から数十年前の思い出話しです。毎日のように雪が降る大変な冬でした。その日は朝から穏やかでいい天気でした。私が昼食をとっていたとき電話が鳴りました。これからお寺様の雪掘りをするので頼むという事。さっそく支度を整え、出かけていくと何人かの方がハシゴをかけて屋根に登ってもう雪掘りが始まっています。私も加わって深く積もった雪をおろします。みんなは手慣れて手際よく仕事が進みます。そのうちにお庫裏の方から「おーい、一服してくんなさい」と声が聞こえました。住職様が下の方から「いーかぁ そーら」の掛け声と共に缶ビールが降って来るではありませんか。一汗かいた後です。「うんめぇなぁ」「ビールが喉を音を立てて通っていぐやぁ」など笑い声に包まれていただきました。冬の日暮れは瞬く間にやってきます。ビールをご馳走になった後は元気を取り戻してまた再開しました。今考えると叱られそうなことですが、ビール効果でむしろ仕事がはかどりなんとか暗くなる前に無事終えることができました。・・・・・ (堀井鉄男さん著)

 こんなふうに助けていただいてきたのですね。屋根の上の一服の様子が彷彿とされます。大雪の中に和やかに輝く笑顔が浮かんできます。「こおりおおきに みずおおし さわりおおきに 徳おおし」とはこういうことでしょうか。


映画「聯合艦隊司令長官山本五十六」を見てきました

86号 感話:涅槃会  映画制作者の人間山本五十六を描きたいという思いが伝わってきました。日米開戦に反対を称えていたといっても、結局は最高責任者として戦争を指揮しなければならない立場に身を置いて、多くの若いいのちを失わせてしまいます。そのいのちの背景にはたくさんのご家族がおられます。戦死者ひとり一人の名前を目にしてどれほど苦悩されたことでしょうか。
 自分の指揮に異を唱え結果として多くの犠牲を出した部下の指揮官(南雲中将)がうつむいて長官室を訪ねます。山本長官は「お茶漬けはあったかいうちに食べなければ美味しくないぞ」と振る舞うのです。ジーンと来ました。その指揮官はどんな叱責よりも身に応え、同時に人間山本五十六の温かみを噛みしめたに違いありません。
 映画に出かける前に予習した稲川明雄著「山本五十六のことば」(新潟日報社刊2011)に、こんな一文がありました。「仕事を教えるのでも、讃めてやるというのが秘訣のようであります。讃めるということは馬鹿なやつをおだてることではなく、共に喜ぶことであります。」 「讃めることは共に喜ぶこと」のフレーズはしんじんのうたに「信心よろこびうやまえば いとおろかなるものとても すぐれし人とほめたまい 白(びゃく)蓮(れん)華(げ)とぞたたえます」 に通じるように思えます。「ともに喜ぶこと」、「ともに悲しむこと」のできる人間関係を作ることが「絆」づくりであると思いました。


感話 涅槃会(ねはんえ)

86号 感話:涅槃会  子ども達の歌声 「みんなみんな泣いています お釈迦さまのおなくなり けものもことりも悲しそう
泣いてさよならいっています
みんなみんなお陰です お釈迦さまのおことばを
今でも聞かせていただいて みんなよいこになるのです。」 2月が近づくとこの歌を歌います。2月14日は若い人なら誰でも知っていますが、15日は何の日か知っている人は少ないかも知れません。お釈迦様が80歳で亡くなられた日です。亡くなられた時の様子を描いた絵を涅槃図といいます。子ども達の歌も涅槃図を描写している歌詞になっています。動物や鳥たちも悲しんでいる姿は、いのちあるもののいのちは等しく尊いという教えを表しているのでしょう。


86号 感話:涅槃会  お釈迦様が入滅される前に弟子に示された最後の教えは、「法灯明 自灯明」であるといわれています。お弟子の阿難(あなん)尊者がお釈迦様が亡くなられた後は何を拠り所にすればいいのですかと尋ねられ、その答えが「法灯明 自灯明」でした。私がこれまでに説いてきたお法(みの)りを拠り所にしなさいよ。また、自分自身を拠り所として生きて行きなさいと説かれました。自分を拠り所にするという意味は、自分の身の上におこったことはすべて自分で引き受けて生きて行きなさいということです。私たちは自分が窮地に立たされると何かに頼ろうします。神頼みもその一種です。病気も自然災害もいつ自分に降りかかるかわかりません。でもそれは誰に代わってもらうこともできないのですよ。そのとき拠り所とする生き方が、お釈迦様が説かれてきたお法りなのです。
 1月の「み教えに学ぶ会」では「念仏者は無碍(むげ)の一道なり」がテーマでした。一道とは人に代わってもらうことのできない道のことです。「治る見込みのない癌が宣告された人を見舞った時『治る見込みはない、それを自ら引き受けるしかないのですね』とはとても言えません。それどころかお浄土ということばすら口に出せませんでした。」と参加者のお一人が発言されました。参加者の多くが頷かれました。
 答えは一通りではありませんが、大切なひとであったなら「あなたと一緒に過ごすことができてしあわせだった」と伝えたい気持ちにもなります。死に逝く人から「出遇えてよかったよ。お浄土でもまた会えるよ」と最後の挨拶をしてもらえたら、いつまでもそのことばを心にしまっておくことができます。
 こんな話を元気なときにしておきたいものです。自分の一道を歩んでゆくことについても。合掌


大雪 やっと峠を越えました

86号 感話:涅槃会 家から西山を望みました。。今日2月3日の夕方久しぶりに夕焼けがきれいでした。


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