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75号 感話:託念寺ものがたり [ 平成23年3月8日 ]

ニュージーランド大地震に思う

75号 感話:託念寺ものがたり  自然災害は恐ろしい。新燃岳(しんもえだけ)火山噴火の様子をみて自然の凄さを思い知らされ、今度はニュージーランドの大地震です。私は18年前、2ヵ月ほどニュージーランドに滞在する機会がありました。クライストチャーチにも10日間滞在したのであの大聖堂が崩壊した映像はショックでした。奇しくもその滞在中に日本の奥尻島津波のニュース(1993.7.12)を知って驚いたことを思い出しました。朝日新聞のコラム記事(H23.2.24朝刊)には、この地震に触れて、かつての阪神震災を詠んだ一首が紹介されていました;
 「居合わせし居合わせざりしことつひに天運にして居合わせし人よ」(竹山広)。そのときそこに居合わせた人よー。鎮魂の調べは、自身の長崎での被爆体験が根にあるという。居合わせる運命に人知は及ばない。
 前回の寺報で「遇う」ことについて述べましたが、天災にあうときは「遭う」と書きます。遭遇するともいいます。望まないことにたまたまあうことを「遭う」というのですね。私たちの人生は「遭う」も「遇う」も人知が及ばないことの連続ですね。しかし件の記事は、「今、悲運から命を救えるかどうかには人知は及ぶ」と結ばれていました。ご家族は祈るような気持ちでおられることでしょう。


写真は18年前にクライストチャーチの大聖堂前で撮ったものです


山崎浩さん、秀美さんご夫妻をお訪ねしました

75号 感話:託念寺ものがたり 先般、春を思わせるような陽気の中、長野県飯山市の真宗寺様をお訪ねして、金子みすゞコンサートをお願いしている山?浩様秀美様にお会いしてきました。金子みすゞさんの詩に寄せられている思いなどうかがってきました。でもこれは6月のコンサートの時に語ってくださるかも知れません。楽しみにしてください。とにかくすてきなご夫妻でした。ご縁を喜ぶというのはこういうことですね。帰り道おみやげにいただいたCDを聞きながらしあわせな気分に浸ることができました。


金子みすゞの詩

75号 感話:託念寺ものがたり  今月紹介する詩は「お魚」です。山?さんが幼稚園の子どもたちに歌うと、「お魚は本当にかわいそう」と素直に共感するのだそうです。いのちをいただくことの申し訳なさに手を合わせます。


お魚  金子みすゞ
海の魚はかわいそう。

お米は人につくられる、
牛は牧場で飼われてる、
鯉もお池で麩を貰う。

けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたずら一つしないのに
こうして私に食べられる。

本当に魚はかわいそう。



写真は前川保育園子ども報恩講のお参りです。


託念寺ものがたり

75号 感話:託念寺ものがたり  いっときルーツ探しがブームになったこともあります。ルーツをたどろうとすると100年くらい先から分からなくなることが多いでしょう。自分を中心に考えると祖父まではかなり分かりますが、曾祖父、高祖父(ひいひいじいさん)になると資料は意外と少ないものです。託念寺は私で13代と言われています。一応初代からその名前は伝えられています。これまで私は高祖父(9代:祐了)のことまでは逸話を聞かされたり、お仏壇に小さい遺骨箱がおかれ、直筆の書物も遺っていて知っていたのですが、最近になって第7代住職のことが少し見えてきたのです。200年近く前のものがたりです。
 時は良寛さん(1758-1831)の時代にさかのぼります。良寛さんが三条大地震に被災して、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるる妙法にて候」と知人に書簡を送ったことはよく知られています。文政11年(1828年)のことです。この前年にあたる文政10年頃、前島村の託念寺住職廓證(かくしょう)が越後國の古地図を書き写した、という記述が筑波大学に所蔵されている古地図から見つかったのです。堀井實さん(青山町)が前川史の資料を収集調査されているとき偶然にも発見してくださったのです。この古地図は平安末期(親鸞聖人がお生まれになった頃)の越後の地図で、なんと現在の長岡のあたりまで日本海が入り込んでいるのです。この古地図の詳細はここでは触れませんが、7代廓證さんとはどういう人物であったのか、にわかに興味がわいてきました。


75号 感話:託念寺ものがたり  そこで寺に遺されているわずかな手がかりをたよりに調べてみました。10代住職了凢の託念寺縁起によると、「廓證は子どもの頃に父と兄に別れ、叔父の非道を受けていた。長じて艱難を免れ廃家を再興する」とあります。廓證さんは1776生まれで1858年83歳で亡くなっています。古地図が書き写された3年前文政7年(1824)には聖人御(ご)絵(え)傳(でん)4幅が本願寺からご下付(かふ)されています。この御絵傳は昨年11月の永代経報恩講の折に奉懸し、立派なものであることを皆さんとともに確認しました。筑波大学で古地図データベースを公開された篠塚さんに廓證が描き写した背景をお尋ねすると、「地域の知識人の中核として、越後国内で話題になった絵図を入手できるだけの人脈を持ち、いろいろと情報交換をされている廓證さんの姿が思い浮かびます」とお返事をいただきました。同時代の人に「北越雪(せっ)譜(ぷ)」を書いた鈴木牧(ぼく)之(し)がいて、彼も同様の古地図を所蔵していたそうです。
 了凢の引用を続けると「廓證の妻は古正寺村中村所兵衛の娘である。この妻との間に1男2女を設けたが早逝した。その後、町田村浄照寺から後妻を迎えた。この人は美人で、栖吉の善正寺に嫁ぎ女子を2人もうけた後に離縁していったん浄照寺に戻った。そのとき次女を連れ帰った。幾年かして廓證の後妻となった。その次女は長男廓祐の妻となった。法名は妙誡。妙誡は21歳で夫に別れ、その後は養父廓證に仕え、その姿故に藩主より賞典を受けた」とあります。興味が尽きません。合掌

写真は託念寺墓地の今です。まだ雪に覆われています。


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