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72号(感話:果物のこころ) [ 平成22年12月8日 ]

永代経報恩講のお礼

72号(感話:果物のこころ)  今年も最後の月になりました。一年を振り返る時期でもあります。1年前には思いもよらなかったことがいくつも身の回りにおきました。誰にも明日のことはわからない私たちの人生であると実感させられたことでもありました。11月28日には永代経報恩講が勤まりましたが、そんな1年を振り返る機会もいただきました。冷たい雨が降るなか、大勢の方にお参りいただいて有り難うございました。

 寄りつきの間に四幅の親鸞聖人一代記御絵伝を掛けさせていただきました。180年経って色あせない見事なご宝物です。


 てっぱん

72号(感話:果物のこころ)  今年は「無縁社会」ということばが流行語のように頻繁に使われました。皆さんのなかでNHK朝の連続ドラマ「てっぱん」を楽しみにして見ておられる方が多いと思います。日曜法座等で「てっぱん」のことを話題にすると「おもいしろいのぉ。一日に何回も見ることがある」とおっしゃった方もおられます。始まるときに流れる曲と「てっぱんダンス」が好きだとおっしゃる方もおられました。ホントにそうですね。このドラマはまさに無縁の人たちが、主人公「あかり」の周りで有(う)縁(えん)になっていく展開です。小気味いいくらいのテンポで話が進んでいくのも魅力です。おばあちゃん(富司純子)が「ひとのことには口出しするもんやない」と諭しても、あかりのおせっかいでつながりを喜べる結果がもたらされるのです。「こころが通い合った」と実感できたときに流す涙は、見ていて気持ちのいいものですね。これからの展開も楽しみにしたいと思います。無縁を有縁に変えていくヒントが得られると期待して。


有縁講に行ってきました

72号(感話:果物のこころ)  こころの垢(あか)も身体の垢も簡単には流せないのですが、それでも3つのお風呂に入り、ご法話にもたくさんうなずき、わが身を省(かえり)みて笑わせてもらいました。ゆったりと過ごした2日間でした。まだ行かれたことのない方も来年は行きましょう。
 その帰りのバスの中のことでした。家が間近になった時分でした。ふと目線を下に落とすとなんと「社会の窓」が開いているではありませんか。座っている姿勢でチャックが自然にさがることはない、一体いつからなんだと、ひとり赤面して時間を後戻(あともど)りさせました。そうか、新井の道の駅でトイレに駆け込んだときだと思い至りました。今度はそこから時間をまた進めて、行った場所、話を交わしたひと・・・・ 私に注意を促そうにもとても言えない、でも言ってやらなければあのひとが可哀想・・・・・楽しげに話をしていても身が入らなかったに違いありません。私も切なかったのですが、私のその姿を目にしたひとはもっとヤキモキしたことでしょう。私は、車中での挨拶で、楽しかった御礼とご心配を掛けた方々にお詫びをすることができました。


感話 果物のこころ

72号(感話:果物のこころ)  ラジオは魅力的なメディアですね。目や身体は束縛されずに楽しむことができるのですから。農作業をするときラジオを腰にぶら下げて聞いている人もいるそうです。私は車に乗ってでかけるときラジオを聞くことを楽しみにしています。テレビと違ってこの番組を聞こうと思ってスイッチを入れるわけではないのですが、儲(もう)けものをしたような出会いもあります。11月のある金曜日の朝、連れ合いを長岡駅に送った帰り、ラジオのスイッチを入れました。するとNHK新潟放送局の「朝の随想」が始まるところでした。「今日は、雪国植物園にある木工工房木遊館館長平澤平四郎さんのお話しです」と紹介がありました。平澤先生はお若い頃に前川小学校に赴任されていたことがあり、知っておられる方も多いと思います。その頃の子どもたちや保護者との係わりについていろんな折にお聞きすることがありました。平澤先生は数年前に退職されましたが、先生のユニークな活動は続いています。テレビでも取り上げられることがたびたびです。


 この日のお話しは「果物のこころ」と題するものでした。車の運転に注意を払いながらお話しに耳を傾けました。平澤先生は雪国植物園で小学生の野外学習の指導をされています。園内を歩くと木の実がたくさん落ちています。どうして木は実をつけるのだろうか。これを小学生に尋ねると、種を作りそれぞれの子孫を残すためと答えてくれます。でもどうして美味しい果肉をつけるのだろうか?それは美味しい部分を動物に食べさせてそれによって種を別のところに運んでもらうためだとこれも知っています。
 平澤先生はこれを「木の意思だと思う」と子どもに語りかけるのだそうです。自分たちの大切な種を運んでくれる動物のために、動物が喜ぶような甘い果肉を木が精魂(せいこん)こめて作るのです。果物にはそんな木のこころがこもっているのです。
 みんなは「勉強をしなさい。今努力すれば将来必ずそれが自分のためになるのだから頑張りなさい」と言われませんか?それはどこかおかしい気がします。自分のため、自分がよくなるためと自分のことばかり考えています。果物のように、種を運んでくれる動物のためにと美味しい果肉ができあがる。そんなこころが本当は大事ではないのですか。みんなが今何かに一生懸命努力したり勉強したりするのは、自分のためもあるけれど、何か社会に役立てるひとになりたいと願うからではないのですか?こんな風にお話しして野外学習を終わりにするのだそうです。
 平澤先生、ありがとうございました(ラジオで聞かせていただいたことを家に戻って急いでメモ書きしました。内容が違っていたらお許し下さい)。私たちは「殺生(せっしょう)」というとき動物のいのちを奪うことを意味していることが多いのですが、植物にもいのちがあることは知っています。でも私は、植物のいのちまで思いやることができても、「果物のこころ」や「木の意思」というところまでは考えたことがありませんでした。先生のお話しに「生き物」への慈しみを感じました。
 「一(いっ)切(さい)衆(しゅ)生(じょう)悉(しつ)有(う)仏(ぶっ)性(しょう)(生きとし生けるものすべてが仏のこころを有している)」は仏教の基本的な教えです。ご門主様が「愚の力」(文春新書2009)の中で「生きとし生けるものとは、同時代の生き物というだけではなく、私自身のずっとつながってきたいのち」と表現されていたのを思い出しました。合掌


冬支度

72号(感話:果物のこころ)  お御堂玄関に落雪から身を守る三角屋根が設置されました。
 参道の融雪ホースも取り付けられました。これでいつ雪降っても大丈夫です。


イメージ:ボタン

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