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66号 感話:人の痛み、人の優しさを感じとる感性 [ 平成22年6月8日 ]

6月になってやっと季節らしいお天気に

66号 感話:人の痛み、人の優しさを感じとる感性  六月「衣替え」のはずですが、冬物をもう一度タンスから引き出す作業をされた方も多いでしょう。暖房も同様です。これも温暖化の大きな動きの中の事なのでしょうか。牛豚の口蹄疫(こうていえき)悲劇や昨年の今頃大騒ぎをしていた新型インフルエンザもどこか見えないところでつながっていて、人間中心の行為に対する地球の悲鳴なのかも知れません。テレビ番組の中で江川紹子さんが、「今や安全保障は国と国の間ではなく、人類と地球の共存を対象にしなければならない」とおっしゃっていた事が心に残ります。国と国が争っている場合ではないのです。それにしてもこの段に至っても人間の欲望はとても深く、地球を守るためと思っても、一度味わった便利さやおいしさを元に戻せないわがままに自己嫌悪します。親鸞聖人が深く自省された「慚(ざん)愧(ぎ)」を学び直さなければなりません。


 右の写真は前住職の弟鷲尾勝が遺した水彩画です。本堂屋根敷設落慶法要の折に描いたのだそうです。


日曜法座特別企画予告 「二胡の演奏を楽しむ」

66号 感話:人の痛み、人の優しさを感じとる感性 7月4日(日)午前10時〜12時 会場:前川保育園おゆうぎ場 お勤めもおゆうぎ場で行います。
出演:伊丹弘子さん 江辺(えべ)玲子さんほか。 にほんの歌、中国の歌、なじみの曲。
10時から「しんじんのうた」をお勤めしたあと、演奏会になります。どうぞたくさんの方お集まり下さい。


写真は寺の裏庭です。5月に雨が多く降りましたが、木々は日々緑を増していました。


感話 「人の痛み、人の優しさを感じとる感性」

 私たちは科学的にものをみることを大切にしています。科学の進歩は著しいものがあります。「サイエンス」ということばを使うと、信用できるもののように聞こえます。近年はこれまで分からなかったことがどんどん科学的に明らかにされてきています。眼に見えなかった小さなものが見えるようになり、目の届かない遠くのこともさまざまな技術によって解るようになってきました。
 科学は誰がやっても同じ結果が出るような証明が必要です。だから信用します。でもこの世の中には科学的な視点でみるとまだ解らないことがたくさんあります。また、最新鋭の機械を使っても眼に見えないものがたくさんあります。例えば、「ひとのこころ」です。人がどんな思いをある人に向けているかは見えません。通常私たちが人と係わるとき、人と話をするとき、人の話を聞くとき、いわれたことばを文法通りに解釈することよりは、相手が自分にどんな思いで話をしているのか相手の心の中を知ろうとしています。異性を好きになったときは痛切にそのことを感じます。相手は自分に好意を抱いてくれているのだろうか、嫌っていないだろうか、一つひとつのことばや仕草から推測します。私の青春時代はそんなことで悩み苦しんだ時期だったと振り返ったりします。
 本題に入ります。月刊誌「自照同人第58号2010」(自照社出版)に大平光代さんのことに触れた記事が載っていました。大平さんは、中学の時に大変ないじめを受け、自殺を図り非行に走ったのです。それから立ち直るまでの自伝がベストセラーになって有名になった方です。大平さんが僧侶になることをめざして仏教の通信教育を受けようと思った動機がつぎのように紹介されていました;
 弁護士になって、犯罪を犯した子に「手をつねってごらん、痛いやろ。相手の人も同じように痛いんやで」と諭すと、「自分は痛いけど、相手のことはしらん」という子が増えた。自分自身が非行に走っていた頃は、自分が痛かったら相手も痛いやろなあ、と思ったり、刃物を振り回してもそれ以上は駄目という一線を知っていたが、今はブレーキがきかないどころか、相手が死んでしまうことにも意識が及ばない。どうしてそういう子供が増えたのかと思っているとき、ある会合で「敗戦後、宗教教育が取り払われて、心の柱がなくなりましたねえ」と聞き、それがきっかけで仏教を勉強しなければと思った。(「合掌ができない子どもたち」三上章道著より)


66号 感話:人の痛み、人の優しさを感じとる感性  科学教育と最も遠いところに位置づけられているのが、宗教教育かも知れません。「自分は痛いけど相手のことはしらん」子どもが増えたという原因が、宗教教育をすれば取り除かれるのかはわかりませんが、「人の痛みを自分の痛みとする」やさしさは、まさに仏教で説くお慈悲そのものです。人の痛みが自分の痛みとして感じとられた経験はきっと誰でもあります。また、人がよろこんでくれたことが自分の喜びとして感じられることも誰でもが経験していることです。これが誰にでも備わっている仏性(ほとけのこころ」だと、てらだよりの中でもこれまで何度も書きました。今、仏のこころが薄くなっている子どもが多くなっているとすれば、それは育てる側に責任があるのかも知れません。右の絵をご覧下さい。上述の引用した記事に載せられていた挿絵です(自照同人第58号p9,2010)。お地蔵さんが雨に濡れて可哀想と、女の子が相合い傘をしています。何とも嬉しくなるような絵ですが、この絵を滑稽(こっけい)だと笑う子どもや大人がいたら本当恐ろしいことだと思いました。合掌


ちょっと懐かしい写真です

66号 感話:人の痛み、人の優しさを感じとる感性 戦後間もない頃の参道と本堂です。石垣が高かったと感じられます。本堂は寺院建築ではなくただ大きい建物でした。
左隅に経蔵がかすかに見えます。60年でずいぶん変わりました。


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